じじぃの「人の死にざま_613_榎本・健」

榎本健一 - あのひと検索 SPYSEE
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榎本健一 モン・パパ C'est Pour Mon Papa - Enoken 動画 YouTube
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洒落男(A Gay Caballero) 動画 YouTube
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榎本健一 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
榎本健一は、日本の俳優、歌手、コメディアンである。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていった。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍した
【来歴・人物】
東京市赤坂区青山(現在の東京都港区青山)の出身。
1929年(昭和4年)、浅草で「カジノ・フォーリー」に参加。一度は解散するが、エノケンを中心とした新生カジノ・フォーリーは、都会的なギャグとコントのセンスで一躍インテリ層の人気を集め、若き文豪であった川端康成新聞小説『浅草紅団』(1929年 - 1930年、東京朝日新聞)で紹介。「金曜日の晩には踊り子がズロースを落とす」という噂も手伝って、連日満員の大入りとなり、浅草の人気者となった。
その後、「プペ・ダンサント」を経て、ジャズシンガーの二村定一と二人座長となった「ピエル・ブリヤント」を旗揚げ。座付作家に菊谷栄、俳優陣には、中村是好、武智豊子、師匠である柳田貞一らを抱え、これが後に「エノケン一座」となる。
エノケンの「動き」の激しさについて、手だけで舞台の幕を駆け上る、走っている車の扉から出て反対の扉からまた入るという芸当ができたという伝説がある。この人気に目をつけた松竹はエノケン一座を破格の契約金で専属にむかえ、浅草の松竹座で常打ちの喜劇を公演し、下町での地盤を確固たるものとした(ピエル・ブリヤント後期)。一方、東宝は、映画雑誌編集者であった古川緑波声帯模写などの素人芸に目を付け、トーキーの進出で活躍の場を失っていた活動弁士徳川夢声や生駒雷遊らと「笑の王国」を旗揚げさせ、有楽座で主に学生などインテリ層をターゲットとしたモダンな喜劇の公演を旗揚げし、「下町のエノケン、丸の内のロッパ」と並び称せられ、軽演劇における人気を二分した。
ミュージカル風に話が進行するエノケン映画は、1940年(昭和15年)まで、ほぼ年に3〜4本は制作された。『エノケンの千万長者』『エノケンの頑張り戦術』といった現代劇、『エノケン近藤勇』『エノケンのどんぐり頓兵衛』『エノケンのちゃっきり金太』『エノケンの猿飛佐助』『エノケンの法界坊』『エノケン弥次喜多』『エノケン鞍馬天狗』『エノケン森の石松』『エノケンのざんぎり金太』といった時代劇はいずれもヒットとなった。ほとんどエノケン一座でキャスティングされ、人気を博した。その後、人気俳優らと共演した映画『エノケン孫悟空』が1941年(昭和16年)に封切られたが、中国ロケを敢行し、当時流行していたオペラを採り入れた内容で、大ヒットとなった。
終戦後、笠置シヅ子エノケンの相手役を務めたが、同コンビは有楽座の舞台を連日満員にし、映画でも『エノケンのびっくりしゃっくり時代』『歌うエノケン捕物帖』『エノケン・笠置のお染久松』などがヒット作となった。また、過去に「犬猿の仲」といわれた古川ロッパと共演した『新馬鹿時代』は前編後編ともに当たりとなった。
舞台で孫悟空を演じた際に、如意棒を左足に落としたことが原因で脱疽を発病。1952年(昭和27年)、再発したのは右足で、足の指を切断する事になった。その後は主に舞台に活躍の場を移し、1954年(昭和29年)には古川緑波柳家金語楼と「日本喜劇人協会」を結成。自ら会長となり、喜劇人協会の公演などで軽演劇を演じ続けた。1960年(昭和35年)には、46歳で紫綬褒章を受章した。
酒好きが祟って晩年頃には身体を壊していた。そして1970年(昭和45年)の元旦に激しく体調を崩したため周りの者の勧めもあり神田駿河台にある日大病院に緊急入院した。しかしその3日後の1月4日には昏睡状態となってしまい、更に3日後の1月7日に肝硬変により死去した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
エノケン (1904-1970) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
小さな身体と大きな眼玉、軽快な動きと哀愁をおびた歌で日本の喜劇王といわれた榎本健一(えのもとけんいち)は、昭和27年、エノケン撃団解散の羽目におちいり、座員の退職金を作るために地方巡業に出た。
ところが広島で右足に激痛をおぼえ、立っていられないほどになったが、やっとうしろから支えてもらって舞台をすませた。しかし、次の岩国ではそれも不可能になり、座員に抱かれたまま彼は満員の客におわびし、半失神状態で帰郷して、慶応病院に入院した。
病名は特発脱疽(だっそ)で、膝から下を切断しなければならないと宣告されたエノケンは、そのあとガスと首吊りと、2度自殺を計ったが右t間に発見されていずれも未遂に終った。
彼の脱疽は、依然舞台で孫悟空を演じたとき、天井から落ちて来る如意棒(にょいぼう)が足に当たったことが原因だったという。
エノケンの必死の嘆願で、一応切断は右足のつま先だけですますことになり、手術が彼はゴムで足型を作り、それを足にのせて再起した。
ところが、10年後の昭和37年、名鉄ホールに出演中ふたたび脱疽が再発し、9月、東大清水外科でついに大腿部から右足切断の手術を受ける運命におちいった。彼はまた首吊り自殺を計ったが、これも未遂に終った。
しかし彼は、以後義足をつけてみごとにカムバックした。
昭和39年11月、そのエノケンが病気と税金に苦しみ、その双方をやっと克復したというので、政治家たちによって「エノケンを励ます会」がひらかれた。役者エノケンは出席して感謝した。その政治家たちは脱税の代表的集団のようなものだから、これはエノケンのいかなる喜劇も及ばぬグロテスクな催しであった。
昭和44年12月の末近いある日、エノケンは夜中に突然起き上ってトンボを切って見せ、「まだおれは大丈夫だなといったが、12月29日、妻のよしゑがお正月のお飾りを買って帰ると、エノケンはぐったりと寝ていた。
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しかし元旦の午後1時ごろ、彼はまた横になり、そのようすがただごとでないので、よしゑはカメラを買いたいからいっしょに見てくれといって無理に誘い出し、やっと病院に連れていった。
診察さえ終ったら彼は帰宅するつもりであったが、そのまま入院を命じられた。病名は重い肝硬変であった。
3日に、突然、「ドラが鳴るんだよ。船が来たよ。ほら、ほら!」と眼をむいてさけび出した。よしゑが驚いて、「お父さん、船なんか一人で乗っちゃだめですよ」というと、「うるせえや、早く乗れ」と、いった。
5日、苦しいかと訊かれても、大丈夫? と尋ねても黙っているので、よしゑが、「病院出たら温泉にでもゆきましょうか」というと、「ありがとう」といった。これがエノケンの最後の言葉となった。彼は肺炎を併発していた。
7日午後2時50分、ほとんど苦しまず、痰がちょっとからまった感じで彼は息をひきとった。

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