じじぃの「キリストの奇跡に挑む!」

救い主 イエスキリスト 動画 YouTube
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BBC地球伝説 「ミラクルは起こったのか?キリストの奇跡にいどむ(1)奇跡に隠されたメッセージ」 2010/1/13 BS朝日
アメリカで人気を博している敬虔なキリスト教徒であるマジシャンのブロック・ギルが、聖地を旅して、キリストの奇跡を検証する3回シリーズ。その第1回では、キリストが起こした有名な3つの奇跡を検証する。
ブロック・ギルは、キリスト教徒でありマジシャンでもあるという立場をフルに活かして、謎に満ちたキリストの奇跡を検証していく。キリストの奇跡はマジックで再現できるのか、それとも本当の奇跡だったのか…? 番組では、CGを駆使した再現ドラマでキリストの奇跡を映像化し、さらにブロックがそれをマジックで再現できるかを検討。ブロックの依頼を受けて、イリュージョンの第一人者が水の上を歩く奇跡を再現するシーンは大きな見どころだ。
結局、キリストがどのようにして奇跡を起こしたのかは謎のままだが、そこに「自分こそが旧約聖書の偉大な人物の再来である」というメッセージが込められていたという結論は、なるほどと思わせるものである。
キリストが起こしたという3つの奇跡とは、未亡人の息子を生き返らせた奇跡、わずかなパンと魚を5000人分に増やした奇跡、そして水の上を歩いた奇跡である。
キリストはなぜ、どのようにしてこれらの奇跡を起こしたのか、ブロック・ギルは聖書をつぶさに調べ、奇跡の起こった現場を訪ねて検証する。
ブロックは、これらの奇跡をマジックで再現できるか検討するが、最初の2つの奇跡については、まったく再現不可能。水の上を歩いた奇跡は、現代のテクノロジーを用いれば可能だが、当時は不可能だったという結論に至る。
キリストがどのようにしてこれらの奇跡を起こしたのかは、結局謎のままだが、なぜこのような奇跡を起こしたのかは、ヒントが見えてくる。旧約聖書を調べると、キリストの奇跡には先例があることがわかる。偉大な預言者や救世主の再来を待ち望む当時の人々の思いをくみ取って、キリストは旧約聖書の偉大な登場人物をなぞろうとしていたようだ…。
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_09_01.html
BBC地球伝説 「ミラクルは起こったのか?キリストの奇跡にいどむ(2)神のなせる業(わざ)」 2010/1/14 BS朝日
アメリカで人気を博しているキリスト教徒のマジシャンのブロック・ギルが、聖地を旅して、キリストの奇跡を検証する3回シリーズ。第2夜である今回は、まるで神が起こしたかのような奇跡の謎に迫る。
マジシャンのブロック・ギルは、お得意のイリュージョンの手法によってキリストがやったように嵐を静め、手品で水をワインに変え、催眠術で何かにとりつかれた人を治してみせる。しかしそれには入念な準備が必要であり、キリストが同じような手法を使っていたとは考えられないという結論に至る。
キリストの奇跡を現代の手法で再現してみせるという、視覚的な興味が尽きない番組であるが、その奇跡に秘められたメッセージの分析も興味深い。
第2回では更に一歩踏み込んで、「キリストは自分が神だと言おうとしていたのではないか」という結論を導き出す。
ブロック・ギルは今回も3つの奇跡を再現してみせる。それは、嵐を静める奇跡、水をワインに変える奇跡、そして悪魔払いの奇跡。
番組ではブロックは見事に嵐を静めてみせるが、それは特殊効果を駆使した映像のマジックのなせる業だった。そのほかの奇跡も、催眠術やマジックでは不可能だったという結論に至り、なぜそのような奇跡が起こせたのかは謎のままである。
謎であるがゆえに、悪魔の力を借りたのではないかという非難にさらされることもあった。しかし、聖書をつぶさに読み直すうちに、ブロックはキリストが悪魔と戦っていたことを悟る。
キリストは、悪魔と戦い、神にしかできない奇跡を起こすことによって、「自分は神である」というメッセージを表そうとしていたのではないか…。
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_09_02.html
BBC地球伝説 「ミラクルは起こったのか?キリストの奇跡にいどむ(3)復活の謎」 2010/1/15 BS朝日
アメリカで人気を博しているキリスト教徒のマジシャンのブロック・ギルが、聖地を旅して、キリストの奇跡を検証する3回シリーズ。その第3回では、究極の奇跡ともいえる復活の謎に迫る。
マジシャンのブロック・ギルは、仲間のマジシャンの力を借りて、キリストが墓から消える場面を、ステージの上で再現する。また、箱の中に閉じこめられたまま、瞬時にして消え、別の場所から現れるイリュージョンも披露する。しかしこれらのイリュージョンには念入りな準備とさまざまな装備が必要で、キリストの時代にはとても無理だった。
死者の遺体が消え、生前の姿で甦るという奇跡に合理的な説明を与えるというのは至難の業だが、ブロックはありとあらゆる可能性を列挙し、それを1つずつ検証していく。学者たちの間でも、長いことタブーとされてきた復活の奇跡に、真正面から取り組む。
復活の奇跡の真相は、結局、謎のままだが、それが世界の歴史に与えた影響には、計り知れないものがある。
“復活”は、キリストの起こしたさまざまな奇跡の中でも究極のものであり、歴史を変えた奇跡ともいえる。ブロック・ギルは、キリストが死から甦ったことを合理的に説明できるかどうか、さまざまな可能性を検証していく。
墓から遺体が消えたのがマジックだった可能性、弟子たちが遺体を盗み出したという可能性、遺体は捨てられて元々墓にはなかったという可能性、また、弟子たちが甦ったキリストを見たというのが、福音書の書き手や弟子の作り話だったという可能性、あるいはキリストに生きていてほしいと願うあまりの幻覚だったという可能性…。ブロックは聖地を旅し、聖書をつぶさに読んでさまざまな可能性を検証していくが、結局、復活の奇跡は2000年経った今も、謎のままである。
しかし、この奇跡の言い伝えが多くの人に広まり、信者を獲得し、キリスト教が世界最大の宗教となったことは間違いない。
http://www.bs-asahi.co.jp/bbc/hi_09_03.html
『イエスの隠された生涯』 マーク タリー/著 二宮磬/訳 集英社 2000年発行
ユダヤ人としてのイエス (一部抜粋しています)
ガラリア地方の次の取材地で、わたしは奇蹟をおこなう人、イエスの問題と直面することになった。わたしが訪ねたのは、イエスがパンと魚を増やして5000人に食べさせた、とされるガラリア湖畔の地に立つベネディクト会の教会だった。ここを訪れた聖地巡礼の観光客はその奇蹟の話を聞かされる。わたしは教会のなかへはいり、アメリカ人説教師がその物語の意味について観光客に語るのに耳を傾けてみた。「この奇蹟は」と、彼は話した。「わたしたちがどんなものを求めるのであれ、イエスに祈れば実現する、と言っているのです」わたしとしてはあまり有益な話とは思えなかった。宗教を信じる者にとっての問題の1つは、自分たちの祈りが聞きとどけられないことがあまりにも多い、というか、すくなくとも期待したようなかたちでは実現しない、ということのはずだ。それはそれとして、話を聞いている観光客たちに、イエスが5つのパンと2匹の小さな魚で5000人の腹を満たし、なおかつ2籠のパンが残った、という奇蹟を信じろというのだろうか? これはどう見ても教会のイエスであって、現実を生きたイエスユダヤ人のイエスではない。
ヨハネ福音書は、ガラリアのカナでの婚礼で、水をぶどう酒に変えたのがイエスが初めておこなった奇蹟である、と伝えている。わたしはこの奇蹟が大好きだ。この話は、初期の教会がイエスのことを、わたしが説教でさんざん聞かされてきたような、狭量なモラリスト、あらゆる楽しみごとに反対するピューリタン的人物だとは考えていなかったことを示しているからである。ヨハネ福音書は同じ章の後半で、"イエスがおこなった奇蹟を見て、多くの人がその名を信じた"と述べている。だが、われわれが生きている科学の時代にあっては、イエスのおこなった奇蹟は不信を引き出す因(もと)とになる。"実際にはありうるはずのない奇蹟がやたらと盛り込まれた福音書をなぜ信じることができるのか?"というのが、キリスト教徒にぶつけられるごくありふれた問いである。だが、このベネディクト会の教会にいる巡礼客たちには、それもつまずきの石とはならないらしい。
奇蹟の物語のいきつかは噂話が基になっている可能性はある。わたしはジャーナリストとして、情報伝達の手段が高度に発展した現代においてさえ、噂が持つ力を知っている。情報が口伝えで広まる社会では、噂話が盛んであっただろう。しかも、噂はすぐさま事実に変わる。実際に起こったことだからではなく、人々が起こったと信じるからである。そして意味のある話となり、後世へ伝えられていく。奇蹟の話は旧約も予言を裏づけ、イエスを旧約の英雄たちの後継者として描きだすものであるから、福音書の筆者たちにはそうした奇蹟を信じたがる傾向があったろう。たとえば、食物を与える奇蹟は、モーセに従った者たちが、荒野で飢え死にするくらいならエジプトで殺されたほうがよかった、と愚痴を言ったとき神が助けの手を差しのべた、という話の模倣である。髪は夕方に鶉(うずら)を彼らのところへもたらし、翌朝には露がパンに変じたのだ。
しかしながら、いくつかの華々しい奇蹟−−食物についての2つの話、嵐を静めたこと、水の上を歩いたこと、など、怪我を治したのとはべつの話−−は充分にありえたことだ、と信じる人たちもいる。彼らは、現代の科学はかって考えられたような整然とした−−というより、統制された、と形容するほうが適切かもしれないが−−世界にわれわれが住んでいないことを明らかにしている、と主張する。自然はニュートンが説いたほどには予測可能なものではない、と。自然には未知の力が、祈りと信仰にによって引き出しうる力があるかもしれない、と。だから、たえずこの世と関わりを持ち、また自然が予測不可能であるように、いわば不規則に行動を起こす神が存在する可能性は残っている、と。根っからの懐疑主義者ではないたいていの人たちは、奇蹟はありうるものかどうかという問題については答えを留保しておきたいだろう、とわたしは思う。エド・サンダースはこう言った。「ただ魚を裂いただけで膨大な量に増えるなどということは考えられませんが、初期のキリスト教徒に嘘つきやらいかさま師やらがいっぱいいたとも思えません。だから、その種の奇蹟をどう説明したらいいもか、わたしにはわからないんです。途方に暮れるばかりです、正直なところ」神学者であり、聖書研究者であるアメリカ人、マーカス・ボーグは、こうした奇蹟は歴史のなかの未決定事項に組み入れておくしかない、と言っている。
ボーグは、癒しの範疇(はんちゅう)にはいる奇蹟はイエスが実際におこなったのだと信ずべき確たる根拠がある、という新説を唱えている。まず、そうした行為は充分に実証されている。次に、当時は癒しや悪魔払いが煩雑におこなわれていた。そしてイエスと対立する者たちでさえ、彼が癒しをおこなったことを認め、彼のことを悪魔の仲間と難じている。以上が彼の唱える根拠である。ボーグによれば、"崇拝者からも、疑いの目を向ける敵からも、彼は癒しの力を持つ聖なる人と見られていた"のである。現代では、奇蹟は医学的、心理学的に説明がつけられる。と教えられるが、それでも奇蹟は起こるものだと信じている人がすくなからずいる。イエスの時代の人々は、世の中では目に見える以上の出来事が進行している、と信じて生きていた。日常の生活と作用しあう霊的世界が存在したのだ。それはボーグの表現を借りれば、"単に信じることの問題ではなく、信仰の1要素"だった。となると、当時イエスが癒しをおこない、その治療が奇蹟と受けとめられたことを疑う理由はない。これは歴史的にみて重要である。イエスは、ボーグが言うところの"ユダヤ教のカリスマ派に属する霊的力に満たされた人物"だったのかもしれないのである。ローゼン卿が言うファリサイ派のイエスとも、サンダーズの言う終末論的予言者としてのイエスとも異なる像である。

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どうでもいい、じじぃの日記。
1/13〜1/15 BS朝日 BBC地球伝説 「ミラクルは起こったのか?キリストの奇跡にいどむ(1)〜(3)」を観た。
イエス・キリストが行ったといわれる奇跡を検証する番組である。
キリストの奇跡は本当にあったのだろうか。
・未亡人の息子を生き返らせた奇跡
・わずかなパンと魚を5000人分に増やした奇跡
・水の上を歩いた奇跡
・嵐を静める奇跡
・水をワインに変える奇跡
・悪魔払いの奇跡
・復活の奇跡
これら、キリストが行ったといわれる奇跡には「復活」を除いて旧約聖書に先例があることが分かった。
モーセが行った奇跡に「空から大量のうずら(鳥)を民に与えた」がある。これは「わずかなパンと魚を5000人分に増やした」と同じ奇跡なのである。
キリストは旧約聖書の救世主(メシア)をなぞらえて奇跡を行っていた。
しかし、旧約聖書に出てくる救世主と決定的に違うのは旧約聖書の救世主が神に対して「お願い」したのが、キリストは自分で奇跡を行ったことである。
キリストは「神の使い」ではなく「神」だったのである。
マジシャンのブロック・ギルがキリストが行った奇跡を再現して見せる。しかし、マジックはトリックが必ずあり、まわりに「サクラ」がいたり、仕掛けが必要だが、キリストが行った奇跡には「サクラ」とか、仕掛けの跡がまったく見つからないのである。
ブロックが子供の頃から、ずっと疑問に思ったこと。それはキリストが「神の子」で奇跡を行ったのであるならば、なぜ殺されなければならなかったのか。
墓からキリストの遺体がなぜ消えたのか。
・墓から遺体が消えたのがマジックだった可能性
・弟子たちが遺体を盗み出したという可能性
・遺体は捨てられて、元々墓にはなかったという可能性
・弟子たちが甦ったキリストを見たというのが、福音書の書き手や弟子の作り話だったという可能性
・キリストに生きていてほしいと願うあまりの幻覚だったという可能性
キリストの死後、50日経ってキリストの弟子たちが集まった。この弟子たちが結束してキリストの信仰のため、自らの犠牲をいとわずキリストの教えを広めていったのだった。
キリストの復活は、キリストの弟子だったのである。
『イエスの隠された生涯』にアルベルト・シュバイツァーが出てくる。
彼は、キリストの教えを忠実に実行した一人であった。