じじぃの「人の生きざま_17_伊東・四朗」

三宅裕司 伊東四朗 葬式コント 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GKVcOIYlRsY
伊東四朗オフィシャルサイト
http://www.orute.co.jp/
伊東四朗 ウィキペディアWikipedia) より
伊東四朗(本名:伊藤輝男(いとうてるお)、1937年(昭和12年)6月15日 - )は、日本のコメディアン、俳優、タレント、司会者。東京都出身。東京都立市ヶ谷商業高等学校卒業。血液型はO型。次男はタレントの伊東孝明
【電線マン】
1975年以降、三波の意向で「てんぷく」名での活動を抑制した頃、小松政夫との共演が話題になり、テレビ番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』での親子コントや『電線音頭』でのベンジャミン伊東(この名前の由来は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンから)、『笑って笑って60分』での「小松の親分さん」などのネタで人気に火がついた。小松と2人で生み出したギャグがいくつもあるが、正月によく流れる琴による演奏の『春の海』を口で表現する「つん、つくつくつくつん。つん、つくつくつくつん。ひやーひんひらひらりー、べんべらべんべらべんべらべんべらべん」は伊東のオリジナルである。
また、「ずん」や「ニン」、「ど〜かひとつ」といったギャグも有名になった。「ベンジャミン伊東」としてのスタイルは、藤田まことら古くからのコメディアン仲間から「あいつはバカになったのか!?」と驚嘆されるほどのインパクトがあり、小林信彦からは大いに絶賛された。それまで「てんぷくトリオ」のサブ的役割だった伊東が、にわかに芸能界で存在感を示し始め、1979年には『ザ・チャンス!』(TBS系)の3代目司会者に抜擢されるなどした。
「ベンジャミン伊東」のキャラクター案は、伊東が自身の威圧的な顔にコンプレックスを持っていたため「怖い顔でも面白い人はいないのか?」と考えた時に「サーカスの団長」が思い浮かんだ事が発端となっている。
【喜劇役者として】
1982年12月8日、盟友・三波伸介が52歳の若さで急死、伊東はショックを受け葬儀で号泣。「てんぷくトリオ」は早くも伊東の一人となってしまう。翌1983年、NHK連続テレビ小説おしん』の父親役に抜擢され、同ドラマが大ヒット。以後、活動の中心を俳優業に変え、シリアスな演技もできる実力派としての評価を得て、活躍の場を大きく広げた。また、俳優業のほか、バラエティ番組の司会も数多く担当する。数多くのドラマで父親役をやってきた事や、『伊東家の食卓』などのイメージで、他の芸能人からは「お父さん」と呼ばれる事も多い。
自らを「喜劇役者」と位置づけており、いつまでもそうあり続けたいと語る。「(三波も戸塚もいなくなったけど)てんぷくトリオは解散していない」とも述べ、コメディへのこだわりも見せる。かつての喜劇役者仲間であり、親しい友人でもあった東八郎関敬六、また渥美清由利徹といった浅草喜劇出身の役者たちがこの世を去った今、『浅草喜劇の伝統を後代へ引き継ぎたい』という思いと、『彼らの分まで、自分の体が動く限り現役で頑張りたい』との思いが年々強くなっている。

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『最後の日本人』 斎藤明美/著 清流出版 2009年発行
伊東四朗(喜劇役者) "役者たる前に人間たれ"を実践する稀有な人 (一部抜粋しています)
どんな仕事をお願いしても、その都度きちんと応えてくれる人だ。私の場合は雑誌の原稿やインタビュー取材ということになるのだが、どの場合も期待以上の"収穫"をくれる。芸能人にありがちな「今日は何の取材だっけ?」などということは一度もない。誠実な人である。だが概して、真面目で几帳面な人は芸がも一つだったりする。が、そこがまたそうでないところが、伊東四朗という人の"稀(まれ)な"ところだと、私は思っている。
「そう几帳面でもないんですよ。自分の机の上は見せたくないです。(笑)。ただ、仕事に関してはある程度几帳面でないとやっていけない。僕らの仕事は曖昧そうに見えて、割と緻密なんです。入り時間がどうとか段取りがどうとか、第一台詞を覚えなきゃいけなし。いい加減ではとてもできないんです」
そうならいいのに、と私は思う。芸能人と呼ばれる人が全て伊東氏と同じ考えならどんなにいいだろうと。
「ある人に『役者は変わってるほうがいい』と言われたことがありますが、私は、"変わってる人"が役者なのではなく"変わったことができる人"が役者だと思うんです。この仕事はやっぱり"職業"だと思うんですね。私は。職業であるからには、普段は一般の人でないといけないと思う。一般人が突然変なことができるというほうを僕は選びたいんです」
ある年代以上の人は覚えているだろう。
「人の迷惑省みず、やってきました、電線軍団!」、小松政夫の甲高い声に送られ飄然(ひょうぜん)と登場する"ベンジャミン伊東"。顔にナマズ髭を描き、ビシビシと笞(むち)を振るいながら闊歩する、あのサーカス団長だ。私は大学生だったが、初めてテレビを見た時、妙な言い方だが、唖然と爆笑した。何だ、これ? どうしたんだ、この人? まさに作家・小林信彦氏言うところの「ダリの世界。シュールレアリズム」そのものだった。その時、特に印象に残っているのが、目である。異様な風体もさることながら、完全に"イッちゃってる"ベンジャミン伊東の目。だから、大笑いしながら、一方で鋭利な刃物を喉元に突きつけられたような怖さを感じた覚えがある。それは、さらにさかのぼること十余年、伊東が三波伸介戸塚睦夫と組んでいた"てんぷくトリオ"においても言える。伝説のお笑い時代劇「てなもんや三度笠」にセミレギュラー出演していたてんぷくトリオで、氏は女形に扮していた。全然きれいでない、おまけに少々おつむが弱い中村雨之丞。雨之丞は何か言っては、三波扮する河内山宗俊と戸塚の暗闇の丑松にどつかれ「キャ〜、助けて。人殺し」と叫ぶ。それがお決まりだった。その頃、まだ氏は三波の脇に徹していたが、それでもその目には現在の萌芽が確実にあった。魚のそれの如く、クールで無表情、それも可笑しいことをする場面ほど冷めていた。その極めて不可思議な雰囲気、やる気があるようでないような、捉えどころのない魅力。時に狂気と正気の紙一重の危うさを見せるその目が私を惹きつけて放さず、子供心に「あの変な人、また出てこないかなぁ」といつも期待したものだ。
「ベンジャミンなんかはね、ふざけてやっちゃいけないんですよ。あれふざけると可笑しくも何ともないんです。照れてもダメなの。始まるまでいくら照れてもいいんですけど。喜劇を演ずる時にみんなが陥りやすいのは、とにかくウケようとすることなんですね。僕は、結果としてウケなきゃいけないと思うから」
氏は変身していくプロセスが好きだという。例えば大劇場に出る時、「お早うございます」といって演技事務所の前を通り、着到板(出演者の名札)を返し、お稲荷さんに柏手をうって、楽屋の暖簾を潜って化粧前に座り・・・・そうやってだんだん自分を"作っていく"過程が好きなのだという。
瞬時に変身する人もいるだろう。だがいずれにしろ、優れた役者はそれぞれにじぶんなりの"境目"を持っているのではないだろうか。素の自分と変わったことをする自分との間に。のべつ芸能人を引きずり、仕事と私生活の区切りのない芸能人に限って、腕がない。ひたすらスキャンダルという名で私生活を売り、売名するのである。"本業"で勝負できない。
「サブワーク(芸能業以外の仕事)を持つことを僕は決して否定しませんが、僕にはできないんです。僕は逃げ道を断って、いつもケツに火がついていたい」
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最後に聞いた。
−−伊東さんにとって一番大切なものはなんですか?
一拍あって、答えた。
「誠意ですね」
いつもと変わらぬ淡々とした口調だった。

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