じじぃの「勘!本当はどうなんだろう」

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『ミステリーを科学したら』 由良三郎/著 文藝春秋 1991年発行
 (一部抜粋しています)
戦前の東大病院には木造病棟があって、そこの玄関に下足番のお爺さんがいた。その人は私の学生時代にすでに30年ほど勤めていたらしい。彼は新しい入院患者を一目見るとすぐに、あれは腎臓病だとか、心臓弁膜症だとか、糖尿病だとか言ったが、それが不思議によく当たり、新入局の医師で診断に苦しんだ者は、ひそかに彼の意見を訊きに行ったものだと教授から訊いたことがある。
内科診断学の第一歩は視診で、目の色で貧血の有無を見、顔の色艶(いろつや)で栄養状態を察し、上下眼鹸(がんけん)のむくみとその片寄り、口の両側の左右対称性など、一瞥(いちべつ)で20か30項目の観察をする。経験豊富な医師なら、それだけでだいたいの病気の見当が付くという。
下足番のお爺さんは誰にも教わらずに、長年の経験でそれを会得していたのだろう。
こういうのを「経験に基づく勘」というべきであって、まるっきり根拠のない「山勘」とは別のものとして考えなくてはいけない。
なぜこんな話を持ち出したかというと、これが警察の捜査における、勘と科学捜査のぶつかり合いに関係がありそうだからである。島田一男氏は「現場捜査官」のあとがきで、昔風の運・勘・根を基底としてこそ科学捜査が成立つと述べている。
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小説の世界では、謎の論理的解決に主眼を置くあまり、勘の操作を毛嫌いする人もいる。たとえば、江戸川乱歩シムノンのメグレ警部ものを酷評し、あれは勘だけに頼っているから本当の探偵小説ではないと言ったことが、いろいろな書に載っている。
たしかに勘だけでやられては、話としては面白くない。しかし、実際の警察活動では、案外勘のほうが役に立っているかも知れない。なぜそう考えるのかと言うと、科学の世界でも似たようなことがあるからである。
私はここで古今稀(まれ)なほど勘の良かった学者の話をしたい。1919年にノーベル賞を受けたベルギー人ボルデについてである。
受賞対象は補体(ぼたい)結合反応で、今でも人が細菌やウイルスなどの感染を受けたときにこれで診断を行なう。梅毒のワッセルマン試験もその1つの応用に過ぎない。しかし、私が驚嘆しているのは彼のもう1つの大業績である百日咳菌の分離培養である。
前世紀の終りにコッホが細菌の培養法を確立したが百日咳菌だけは培養できなかった。ところがボルデはコッホの培地に兎血液とじゃが芋エキスとグリセリンを加えるだけで見事にその培養に成功した。驚くべきことには、それから半世紀以上の今日でも、この菌にはボルデの方法以上のものがない。しかも、兎血液とじゃが芋エキスとグリセリンという組合わせを、彼がどういうところから考えたのか、どの本にも書いていない。まったくの勘だったのかも知れない。もしそうなら、彼の勘は人類に大いに裨益(ひえき)したと言えよう。
面白い事には、シムノンもボルデも同じくベルギー生れのフランス育ちなのである。

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どうでもいい、じじいの日記。
『ミステリーを科学したら』という本を見ていたら「勘」が出てきた。
テレビなどの刑事ものに勘はなくてはならないものだ。
毎日が日曜日。再放送だが、水谷豊主演の『相棒』とか、伊東四朗主演の『おかしな刑事』をよく観ている。
ドラマの中で犯人が証拠をたっぷり残してくれているのがある。伊東四朗扮する鴨志田刑事、「何かおかしいんだよな」。といいながら、1人で行動する。刑事の勘というやつだ。
この本の「勘」のなかの話はノーベル賞を取ったベルギー人ボルデについてだ。
ノーベル賞を取った田中耕一さんの場合は、試薬の調合を間違い、もったいないと思って間違った試薬の調合で実験を続けているうちに起こった現象から、勘が働き、結果がノーベル賞に繋がった。
このボルデの場合は「兎血液とじゃが芋エキスとグリセリン」で培養に成功したのだという。
たまたま、兎血液とじゃが芋エキスとグリセリンが手元にあったから使ってみたのだろうか。兎でなくて鼠ではダメだったのだろうか。どんな勘が働いたのだろうか。
ボルデが活躍していた時代は北里柴三郎が活躍していた時代だった。
北里柴三郎破傷風菌の純粋培養に成功した。ボルデはノーベル賞を取ったが、北里柴三郎ノーベル賞が取れなかった。
2人の命運を分けたのはなんだったのだろうか。