じじぃの「人の死にざま_398_林・芙美子」

林芙美子 - あのひと検索 SPYSEE
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林芙美子 作 『谷間からの手紙』 動画 YouTube
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林 芙美子『放浪記』より 〜海がみえた〜 動画 YouTube
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林芙美子 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
林芙美子は、日本の小説家、詩人。物心ついた小学生時代に貧しかった生い立ちからか、底辺の庶民を慈しむように描いた作品に、ことに名作がある。
【生涯】
当人は、生まれは下関と言い、生年は明治37年、誕生日は5月5日などとも書いて語っていたが、没後20年余して、誕生の地は門司市小森江(現、北九州市門司区)との説が発表された。
1918年(大正9年)(15歳)、文才を認めた訓導の勧めで尾道市立高等女学校へ進学した。図書室の本を読み耽り、夜や休日は働いた。女学校の教諭も文才を育んだ。18歳のときから『秋沼陽子』の筆名で、地方新聞に詩や短歌を載せた。尾道では親友たちに恵まれ、後年もしばしば「帰郷」した。
1922年(19歳)、女学校卒業直後、遊学中の恋人を頼って上京し、下足番、女工、事務員・女給などで自活し、義父・実母も東京に来てからは、その露天商を手伝った。翌1923年、卒業した恋人は帰郷して婚約を取り消した。9月の関東大震災を、3人は暫く尾道や四国に避けた。この頃から筆名に『芙美子』を用い、つけ始めた日記が『放浪記』の原型になった。
1924年、親を残して東京に戻り、再び3人の生計を稼いだ。壺井繁治岡本潤高橋新吉小野十三郎辻潤平林たい子らを知った。同棲しては別れることを繰り返した。詩のパンフレット『二人』を、友谷静栄と3号まで出した。原稿を雑誌社・出版社に売り込んで回り、ときに拾われた。
かって原稿の売り込みに苦労して、人気作家になってからも執筆依頼を断らぬ芙美子は、ジャーナリズムに便利だった。書きに書いた。その中に『晩菊』や『浮雲』などの名品もあった。私用や講演や取材の旅も繁くした。1949年から1951年に掛けては、9本の中長編を並行に、新聞・雑誌に連載した。
1951年(昭和26年)、6月26日の夜分、『主婦の友』の連載記事のため料亭を2軒回り、帰宅後に苦しみ、翌27日払暁心臓麻痺で急逝した。『ジャーナリズムに殺された』と、世間は言った。
7月1日、自宅で告別式が執り行われた。近在の市民が大勢参列した。葬儀委員長の川端康成が、『故人は、文学的生命を保つため、競争相手の進出を妨害することがあった』など、挨拶の中で触れたという。
『純徳院芙蓉清美大姉』。萬昌院功運寺に埋葬した。享年47歳。生前、色紙などに好んで、『花の命は短くて苦しきことのみ多かりき』と書いた。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
6月28日−林芙美子 (作家)
『放浪記』であまりにも有名な女流作家である。
まだまだ女がモノを書くなんてはしたないなんて言われていた頃に芙美子は書くことが生きることだとばかりに書きまくった。
養父と母と3人で街から街へ行商の旅。自ずと学校も転校続き。ほんの束の間、落ち着いた広島県尾道市こそがなつかしき故郷と、後年芙美子は語っている。
4人の男と次々に同棲しながら人生の虚と実を見つめてきた林芙美子は体で知った女の痛みを小説に昇華させてきた。
また、芙美子の文学に賭ける情熱は凄まじかった。出版社への売り込み、同性作家への烈しいライバル意識は次のようだったと伝えられている。
生涯にわたって書いた原稿が3万枚。そして170冊もの本を上梓した林芙美子こそは昭和初の女性流行作家だったのではないだろうか。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
林芙美子 (1903-1951) 47歳で死亡。 (一部抜粋しています)
林芙美子は戦後の大流行児として執筆に忙殺され、持病の心臓弁膜症が昂進した。
昭和26年6月28日、「主婦之友」に連載する『私の食べ歩き』取材のため、同誌の編集者高下増子とカメラマン同伴で銀座の「いわしや」にゆき、そのあと芙美子の発意で、深川の「みやがわ」にゆき鰻を食べ、午後9時半過ぎに高下記者に送られて帰宅した。
ところが午後11時過ぎ、書斎兼寝室の中で苦悶しはじめ、胃の中のものを吐き出すとともに呼吸がやんだ。
朝日新聞」連載の『めし』をはじめ、「中央公論」、「婦人公論」、「主婦之友」に連載中の作品はことごとく未完となった。
3年前の6月、太宰治の葬式にいった彼女は、太宰が死んだ玉川上水の現場にいって「あたしなら、こんな濁った川では死なないわ。・・・・あたしなら、海にする」とつぶやいたのだが−−人間は、自分の欲するようには死ねない。
葬儀委員長となった川端康成の挨拶。
「故人は、自分の文学的生命を保つために、他に対して時にはひどいこともしたのでありますが、しかしあと2、3時間もたてば、灰となってしまいます。死は一切の大悪を消滅させますから、どうかこの際、故人をゆるしてもらいたいと思います」
この「他に対するひどいこと」とは、彼女の猛烈なライヴァル意識から、特に同性の女流作家を傷つける言動の多かったことをさすものであろうが、しかし芙美子は歌う。
 花のいのちはみじかくて、
 苦しきことのみ多かりき。

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