じじぃの「神話伝説_37_イエスの奇蹟」

Animated Bible Stories - Miracles of Jesus 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Xz7lOuXuStU
知ってるつもり?!イエス・キリスト』1/8 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=JEoIDqNnYEo
説教でつづるイエス様の物語
聖書の読み方としては決して主流ではありませんが、聖書の奇跡をこのように合理的に解釈しようとする人たちがいることは確かなのです。そういう人たちは、もちろんイエス様が湖の上を歩いたという話しもそのまま信じるということはしません。実は、湖には沖に向かって道のようにのびる浅瀬があったのだ、といいます。イエス様はその上を歩いておられた。それが弟子たちには湖の上を歩かれているように見えたのだというわけです。
こういう聖書の解釈をするクリスチャンというのは、たとえ神様の奇跡を信じくても、聖書にはそれなりの価値があると思っているわけであります。
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christ_srm58.htm
エスの奇跡 ウィキペディアWikipedia)より
エスの奇跡は新約聖書の4福音書に記されている、イエス・キリストが行った奇跡のことである。
エスはこれらの奇跡を行うことで、自然、病、罪、悪霊、死に対して支配する権威をもっていることを公に示し、自らがメシヤであることを立証するために行った。
【自然奇跡】
・水をぶどう酒に変える奇跡(カナの婚礼)
・嵐を静める奇跡
・パンの奇跡(五千人の給食,四千人の給食)
海上歩行
・いちじくの木を枯らす奇跡

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新約聖書を知っていますか』 阿刀田高/著 新潮文庫 1993年発行
ガリラヤ湖 (一部抜粋しています)
ガリラヤ湖畔のキブツ・ホテルは、正直なところサービス万能のシティ・ホテルに比べれば、細かい心遣いなどに多少の不足があったけれど、設備そのものはわるくない。料金の安さも格別である。加えて地の利の面から言っても、ここは聖地の観光に適していた。
「これがガリラヤ湖ですか?」
「はい。たくさんの奇蹟を目撃した湖です」
と、ガイド役のTさんが笑った。
「そのようですね」
遠くに舟の光が蠢(うごめ)いている。少時、2人並んでそれを眺めていたが、Tさんがおもむろに呟(つぶや)いた。
「1つ1つの奇蹟に目くじらを立ててみても意味がないと思うんですよ」
「ええ?」
「作り話もあっただろうし、尾鰭(おひれ)のついた話もたくさんありそうだから」
Tさんは、私などとはちがって、幼い頃からずっと聖書に親しんでいる。どれほどの信仰かわからないが、聖書の中身をよく知っている。
「はい」
と私は頷(うなず)いた。
「病気は治せたでしょうね。病は気からって言いますから。心因性の病気はたくさんあるし、暗示によって治ることもあったんじゃないですか。とりわけイエスのような人に言われれば」
「今だってそういうことがあるんだから、昔はなおさらそうだったでしょうね」
「病気だけじゃなく聖書に書かれているたくさんの奇蹟ですけどね……」
「はい?」
「あれは大衆を相手に、イエスこそ神の子だと、そう信じ込ませるためのプロセスだと思っていたんですけど……」
と、照れるように言って口をつぐむ。
私はTさんの顔を覗き込んで、
「思っていたんですけど?」
と、先をうながした。
「もちろん、それもありますけど、もう1つ、あれは、イエス自身が、自分こそ神の使命を受けた者だと、そう自分で信ずるためのプロセスだったのかもしれませんね。奇蹟を起こすたびに確信が深まっていって……。そんな気がするんですよ」
「なるほどね」
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福音書に記されている奇蹟は、のべ数にして60件ほど。重複しているものも多いから、実数としては30件あまりだろう。
大別してパンや葡萄酒など飲食物を増やす話、中風や癩病(らいびょう)や癲癇(てんかん)など病気を治す話、嵐や日照りなど災害を取りのぞく話などに分けられる。身体障碍者を救う話や死者の蘇生は病気を治す話に含めてよいだろう。
解説書を読み漁っていると、それぞれの奇蹟について合理的な説明を加えているケースも散見される。古い時代にあっては心因性の疾患や障害も多々あったろうから、暗示による治療も一定の効果を示しただろう。こうした説明はそれなりに納得がいくが、ときには、――ちょっとひどいな――
牽強付会(けんきょうふかい)に驚くこともないではない。
「だから、俺、キリスト教が厭なんだよな。なんで水が葡萄酒に変るんだよな。なんで死んだ者が生き返るんだよ。水の上なんか歩けるわけがないだろ」
そんな声が聞こえてくるような気がする。聞こえる以上にそう思っている人は多いだろう。
私も若い頃はそうだった。私は科学を信じる少年であったから、科学少年の眼には聖書は眉唾(まゆつば)ものに見えたのである。
だが、今は少しちがう。奇蹟は聖書に記された通りには起こらなかったろうけど。
――そんなことは、さして重要ではない――
と思っている。少なくとも奇蹟への疑問を根拠にして聖書そのものを否定するほど、それは本質的な問題ではない、と現在の私は考えている。
大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが存在していたことのほうである。事実に近い奇蹟もあったろうが、まるっきりの作り話もあっただろう。だが、いずれにせよ、奇蹟のエピソードは1つの比喩(ひゆ)であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こうした伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい。
小説でしか伝えられない史実というものが現代でもあるではないか。
福音書とは、イエスの言行を伝え、教義を説き、そしてもう1つ”イエスが神の子である”ことを説得するものである。奇蹟の記述は、この最後の目的に直結している。いろいろな読みかたがありうるだろう。