じじぃの「神話伝説_159_メアリー・ベイカー・エディ(クリスチャン・サイエンスの創設者)」

Mary Baker Eddy - A Heart in Protest 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eXfqFzqaciw
Mother's Evening Prayer 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=EVkiHQwbgRk
Mary Baker Eddy

クリスチャン・サイエンスとは何ですか?
質問: クリスチャン・サイエンスとは何ですか?
答え: クリスチャン・サイエンスは、霊性と健康について新しい考えを開拓したメアリー・ベイカー・エディ(1821 − 1910)が始めました。
1866年に自分自身の癒しの体験に影響されて,エディは、聖書研究と祈りと癒しのさまざまな方法の探求に何年も費やしました。その結果は、1879年に彼女が「クリスチャン・サイエンス」と呼ぶ癒しの方式でした。“聖書の鍵を伴う科学と健康”という彼女の著書は、精神と肉体と霊の関連を理解する上に新しい分野を開きました。それから、彼女は大学、教会、出版業を設立し、尊敬される新聞、“クリスチャン・サイエンス・モニター”を始めました。他のグループと名前が似ているので、多くの人はクリスチャン・サイエンスはクリスチャンのカルト(異端)だと思っています。
http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-Christian-science.html
『数学嫌いな人のための数学―数学原論 小室直樹/著 東洋経済新報社 2001年発行
メアリー・ベイカー・エディの「奇蹟」 (一部抜粋しています)
アメリカのファンダメンタリスト(聖書が正しいと信じる原理主義)のなかでも、特に有名なのが、クリスチャン・サイエンスの教祖メアリー・ベイカー・エディ(1821 − 1910)である。
彼女のところへ、息もたえだえの重病人がやってくる。彼女が一言、「汝は癒されたり」と宣言すると、この重病人は、たちまち元気になって、喜び勇んで帰ってゆく。
彼女は言う、「『福音書』にあるとおりでしょう。汝の信仰、汝を癒せり!」。
メアリー・ベイカー・エディは、医者も病気も近代医学も信用しない。信用するのは、『福音書』である。イエスが病人を治したまえるとき、医者や病院や近代医学がどこにあったのか。イエスは、そんなものは一切用いないで重病人を治したもうた。そのとおりにしさえすればいいではないか。
メアリー・ベイカー・エディの病気治しは『福音書』に書いてあるとおりの方法で行われた。あまりにも覿面(てきめん)であったので、クリスチャン・サイエンスは燎原(りょうげん)の火のように全米に広がっていった。
近代医学は、周知のとおり、不完全帰納法による。実験は滅多に行われないし、観測も不完全である。近代医学が方法的に不完全であることは医者がみんな知っている。
それであればこそ、ファンダメンタリストが確信をもって「汝の信仰、汝を癒せり!」と行って重病人を治したとき、こんな方法で病人を治すことは医学の常識に反すると言って反論を加えた医者はいなかった。クリスチャン・サイエンスアメリカ中に急速に広がっていったとき、これに本気になって抗議を企てた医者の集団はなかった。驚くべきことであるとは思わないか!
クリスチャン・サイエンスは自己の方法に確信をもっているのに対し、不完全帰納法に依拠(いきょ)する近代医学は、自己の方法に確信を持ち得ないからである。
クリスチャン・サイエンスの教義は、「実在するのは神だけである。神は善であるから悪は存在しない。病気や老衰や苦は実在しない」。したがって、病気が実在すると思うのは人間の妄信である。ゆえに、妄信であると自覚した途端に消える、と考えるわけである。
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「人は死ぬ」という法則(全称命題)は、不完全帰納法から導き出された結論にすぎないではないか。正しい(真である)とはかぎらない。
これに反し、「イエスの贖罪によって原罪は消えたのだから死はあり得ない」という結論は、聖書から確実に導かれる命題であるから、これは成立する(真である)に決まっている!
このように、クリスチャン・サイエンスは、論理的に絶対正しい(聖書の教義から、演繹的に導かれるから聖書が絶対正しければ、これまた絶対に正しい)命題をひっさげて、正しさ(真であること)が保証されていない不完全帰納法から導き出された「人間は死ぬ」なんて命題を蹴散らしてしまった。
これと同様に、科学実験、科学的観察における帰納法は、みんな不完全帰納法である。人の体験から得られる「法則」における帰納法も、勿論、不完全帰納法である。ファンダメンタリストにとって、このような正しいとは剥ぎらない科学法則など、聖書の絶対的な正しさに比べれば、ものの数でもなかったのである。