じじぃの「人の死にざま_164_ハイドン」

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Haydn 〜ハイドン交響曲第45番 「告別」 第4楽章 動画 Youtube
http://www.youtube.com/watch?v=l_LOkxtLeVI
『音の影』 岩城宏之/著 文芸春秋 2007年発行
ハイドン モーツァルトベートーヴェンの"師匠" (一部抜粋しています)
交響曲の父」、ハイドンは1732年生まれなので、ちょうどぼくより200年前に生まれたことになる。だからハイドンの作品年表を見ていて作曲年代を知ると、ハハーン何歳の時の曲だなと、ぼくはピンとくるのである。
うんと昔の人だと思っていたが、ぼくより200歳だけ年上だと思うと、何となく親近感を持ってしまう。
それでなくても世の中では、交響曲の父−−パパ・ハイドンと言っているくらいだから、ぼくも気軽にそう思うことにする。
パパ・ハイドンは、交響曲を108曲書いている。音楽史上、もっとも多くの交響曲を書いた作曲家である。
弦楽4重奏だけでも83曲あるし、クラヴィーア3重奏曲は31曲とか、弦楽3重奏曲は21曲、オペラが24曲、『天地創造』『四季』などの大オラトリオを4曲・・・・と書いていくと、気の遠くなるような作曲数である。
当時としてはかなり長生きで、77歳で永眠するまでの、すべての作品の数は1229曲である。長いオペラや数楽章ある交響曲や4重奏曲を、すべて1曲として計算して、だいたいこの数になる。
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1790年、ハイドンの最大の庇護者だった、ニクラウス・エステルハージ侯爵が、76歳で没した。後を継いだアントン侯爵は、狩猟の野外演奏のための管楽奏団をのぞいて、楽団を解散してしまった。ハイドンはは名誉楽長の称号と年金を貰って侯爵家を離れ、アイゼンシュタットからウィーンに移り住んだ。ハイドンが58歳のときである。これまでの30年間、エステルハージ家の楽長として膨大な作曲をしてきたが、これからは宮仕えでなく、自由意思で作曲を始めたわけである。
ボンで生まれ、ロンドンでヴァイオリン奏者、興業家として成功していたザロモンが、ハイドンの離職を知って、ロンドンへ誘った。ザロモンの申し出た条件は、12曲の新交響曲ハイドン自身の指揮によって演奏することだった。
1回目のイギリス滞在中の2年間で交響曲を7曲書いているし、そのほか協奏交響曲、合唱曲、弦楽4重奏曲も作曲している。オックスフォード大学から名誉博士の学位を贈られて、1度ウィーンに帰った。
ちょうどこの1792年の11月に、若いベートーヴェンがボンからウィーンに出てきて、ハイドンの弟子になった。
ハイドンベートーヴェンを次の2回目のロンドンに連れていこうと考えていたのだが、実現しなかった。実際には、筆譜家のヨハン・エルスラーという男を連れていったらしい。
要するに、自分の作曲の清書などをさせるために連れていきたかったのだろうが、現在残されているベートーヴェンの凄まじい悪筆を見ると、ハイドンはとても役に立たないと諦めたに違いない。
でもこのときベートーヴェンハイドンと一緒に、1794年から95年まで、ハイドンの筆譜秘書としてロンドンにいたら、音楽史はどうなっていただろう。
年代をさかのぼると、1780年代の始め、ハイドンが50歳になったころ、24歳若いモーツァルトを知ったのだ。2人が最初に会った正確な年代は不明だが、父親に宛てた1784年のモーツァルトの手紙に、ハイドンの名前が表れている。
以後1791年にモーツァルトが死ぬまで、2人は深い友情を保ち続けた。モーツァルトハイドンの『ロシア4重奏曲』に深い感銘を受け、1781〜85年に作曲した6曲の弦楽4重奏曲に献詞を添えて、ハイドンに捧げた。
スゴイでしょう。モーツァルトベートーヴェンハイドンの弟子だったのだ。だからこそ、『交響曲の父−−パパ・ハイドン』と言われているのである。なにもぼくが自慢することではないが。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ハイドン (1732-1809) 77歳で死亡。
1805年1月のある朝、ハイドンは快適な気分で朝食のテーブルについていて、ふと朝刊に眼を落すと「ヨーゼフ・ハイドン死す」という見出しの下に「深い悲しみをもって、われわれは、昨日ヨーゼフ・ハイドンが73歳の高齢をもって安らかに永眠されたことをお伝えする」という記事が出ていた。
ハイドンは立腹して抗議を申し込み、新聞社はこの誤報を陳謝した。
それから4年後の1809年、ナポレオン軍が破竹の勢いでオーストリアに侵入し、5月10日の夜、シェーンブルンに達したとき、そこから半里離れた家で、老いたるハイドンは、こんどはほんとうに死の床にあった。
スタンダールは書いている。
「翌朝1500発の大砲が彼の家から200歩のそばで発射された。彼があれほど愛したウィーンは攻撃されていた。4つの砲弾が彼の家のすぐそばに落ちた。(中略)5月26日には、著しい力の減衰が認められた。しかし彼は無理にその身体をピアノの傍に運ばせ、残った力を集めて3度歌った。
神よ、フランス皇帝を救い給え。
これは白鳥の歌であった。ピアノの前で彼はすぐに昏睡状態に落ちた。そして5月31日の朝に死んだ」(スタンダールハイドン大岡昇平訳)
しかし、さすがにフランス軍は、ベートーヴェンの師でもあったこの「交響曲の父」に敬意を表して、その臨終の2日間にわたってハイドンの家の前を通過することを禁じたといわれる。

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