じじぃの「人の死にざま_394_ベルリオーズ」

エクトル・ベルリオーズの相関図 - あのひと検索 SPYSEE
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Berlioz: Symphonie Fantastique-4th Movement 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Bb7BJQ7LAlo
ハンガリー行進曲 H・ベルリオーズ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=e71MVvh5fVk
エクトル・ベルリオーズ フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ルイ・エクトル・ベルリオーズは、『幻想交響曲』で良く知られているフランスのロマン派音楽の作曲家である。この他に『死者のための大ミサ曲』(レクイエム、1837年)にみられるように、楽器編成のはなはだしい拡張や、色彩的な管弦楽法によってロマン派音楽の動向を先取りした。
ベルリオーズの肖像はかつてフランス10フラン紙幣に描かれていた。
【生涯】
フランス南部イゼール県のラ・コート=サンタンドレに生まれる。ここはリヨンとグルノーブルのほぼ中間に位置する。父親は開業医であり、息子が18歳の時に、家業を継がせるためにパリに行かせた。ベルリオーズ青年は解剖学の途中で気がひるみ、それから1年後に父親の反対にもかかわらず医学の道を捨て、音楽を学び始めた。パリ音楽院に入学して、オペラと作曲を学ぶ。
ベルリオーズは生まれながらにロマンティックで、幼少の頃からすこぶる感受性が強かったと言われている。これは、ウェルギリウスの数節で涙したという少年時代や、長じてからは一連の恋愛関係に明らかである。23歳の時の、イギリスから来たシェイクスピア劇の劇団の女優でアイルランド人のハリエット・スミスソンへの片想いは、やがて『幻想交響曲』の着想へと膨らんだ。この作品の初演と同じ1830年ローマ大賞を受賞する。
ベルリオーズの手紙は、スミスソンにはあまりに情熱的に過ぎると映ったために、彼女は求愛を断ったのであるが、こうした感情によって引き起こされたといわれる『幻想交響曲』は、驚異的で斬新であると受け取られた。この標題音楽的な作品の自叙伝的な性格もまた、当時としてはセンセーショナルなものと見做されたであろう。
生前のベルリオーズは、作曲家としてより指揮者として有名であった。定期的にドイツやイングランドで演奏旅行を行い、オペラや交響曲を指揮した。自作だけでなく他人の作品も指揮しており、中にはリストのピアノ協奏曲第1番の初演なども含まれている。
サン=サーンスの『動物の謝肉祭』の「象」の最初の主題は、『ファウストの劫罰』の「妖精のワルツ」から取られている。しかしながら、音域は原曲よりかなり下げられ、コントラバス独奏によって演奏される。

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『1冊でわかる クラシック音楽ガイド』 後藤真理子/著 成美堂 2007年出版
ベルリオーズ 交響曲で物語を紡いだオーケストラの達人 (一部抜粋しています)
幻想交響曲』以外にもベルリオーズはいくつか交響曲を書いているが、いずれも各楽章に表題がついている。素材も、バイロンの詩『チャイルド・ハロルドの巡礼』であったり、シェイクスピアの悲劇『ロメオとジュリエット』であったりして、物語的だ。
ロマン派表題のはしりといわれるベートーヴェン交響曲『田園』も、各楽章に「田舎に着いて、晴れ晴れとして気分がよみがえる」「小川のほとりの情景」など表題がつき、音楽の内容が言葉によって、より明確に表されている。
ベルリオーズはそのスタイルをさらに進めた一人で、音楽的形式よりも表題が表現する内容を優先させたその作曲態度は、フランツ・リストにより「交響詩」という名の新たなるジャンルを生むことになるのだ。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
ベルリオーズ (1803-1869) 66歳で死亡。 (一部抜粋しています)
幻想交響曲』『ファウストの劫罰』など、フランスのロマン派音楽の代表として知られる作曲家ベルリオーズは、しかしその作品の多くがあまりにも大作過ぎて演奏会がひらきにくく、またひらかれても失敗することが多く、生前は必ずしも恵まれていなかった。
彼はほとんど一生経済的に苦しみ、また2人の妻との葛藤や死別、それに先天的な神経性胃痛にも悩まされた。
60歳以後は作曲も評論もやめ、パリのアパルトマンで、みずから「いつでも死神にどうぞ御随意にといえるような」と自嘲したような状態で孤独に暮らし、ただ最初の妻が残して船員になっている息子ルイへの愛情のみで生きていた。
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彼が63歳のとき、このルイも33歳という若さで、遠いハヴァナで熱病のために死んで、彼に致命的な打撃を与えた。
その年の暮、傷心をまぎらわせるためにロシアに演奏旅行をしたが、寒気のために体調はいよいよ悪くなり、帰国後、1868年静養の目的で南仏に赴(おもむ)いたが、モンテカルロの海岸でころんでから病床に臥(ふ)すことが多くなった。
そして翌1889年3月8日、12時30分、パリのアパルトマンで生涯を終った。
死後1年目の翌年3月8日、オペラ座で彼の記念音楽会がひらかれて、彼ははじめて決定的な大成功をおさめ、ベルリオーズの評価はこのとき定まった。

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ベルリオーズ Google 検索
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