じじぃの「人の死にざま_427_R・シューマン」

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Robert Schumann - Kinderszenen 動画 YouTube
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Schumann Robert - Soldatenmarsch 動画 YouTube
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ロベルト・シューマン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ロベルト・アレクサンダー・シューマンはドイツの作曲家、音楽評論家。ロマン派音楽を代表する一人。名ピアニスト、クララ・シューマンは妻である。
【生涯】
ドイツ、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれる。
1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。同年、シューマンの作品『アベッグ変奏曲』作品1が初めて出版された。1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をした(近年の研究では、ヴィークらの証言する「手を痛めた」点は疑問視されている。薬指関節部分の腫瘍が元で指が動かなくなったことが直接の原因であると見られる)。
評論家としては、1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当。1836年には主筆となり、1843年まで務め、活発な活動を行った。
一方、1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。そのような日々の中で『幻想小曲集』(作品12)、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。
それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。いわゆる「歌の年」と呼ばれる。
1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。このうち第1交響曲は3月31日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。
1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。
1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。
1850年デュッセルドルフ音楽監督に招かれて移住。同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。大規模な声楽曲『ミサ曲 ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった(これにはシューマンの指揮者としての能力の欠如も影響している)。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。
シューマンは病床でも作曲を試みるなどした(この時期に書かれた作品や手紙はクララによって後に破棄された)が、回復しないまま1856年7月29日に梅毒による衰弱が原因の肺炎で死去。最後の言葉は、ワインを指につけて夫にしゃぶらせるクララを腕に抱いて囁いたという「俺は知っている」であった(クララがその様子を日記に書いている)。これがクララが解釈したように「君が来てくれたことは分かっている」という意味だったのか、ブラームスクララ・シューマンが不倫をしているのではないかという疑惑を言葉にしたのかどうかまでは、ついに決定的証拠が残されることがなく、現在でもシューマン研究の論争の種である。

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『1冊でわかる クラシック音楽ガイド』 後藤真理子/著 成美堂 2007年出版
シューマン ロマン派の情念を"体現"した音の詩人 (一部抜粋しています)
シューマンの生地ツヴィッカウに「夢見るシューマン」と呼ばれる銅像がある。椅子に腰掛け頬杖(ほおずえ)をつく、この像はまた「メランコリックなシューマン」とも呼ばれ、いかにもよく彼の特質をとらえている。衝撃的な投身自殺未遂と精神病院での死が、その音楽に漂う不安定で激しい情感とあいまって、どのように暗欝(あんうつ)とした夢にとらわれたのかと思われるのである。
シューマンの心の病については研究されているものの当時のカルテなどなく憶測の域を出ない。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
シューマン (1810-1856) 46歳で死亡。 (一部抜粋しています)
堂々とした体格を持ちながら、極度に非社交的で自閉的な一面のあったロベルト・シューマンは、若いころから傷つき易い神経を持ち、何度か精神異常の兆候を自覚していた。
1853年ごろから神経衰弱が甚だしくなり、仮面のように表情が乏しくなり、他人との接触を嫌悪し、愛妻クララさえも遠ざけ、降霊術の本など読みふけるようになり、デュッセルドルフの市音楽指揮者を解任された。
1854年2月27日、彼は家を抜け出してライン河に投身したが、救いあげられ、馬車でボン近郊の精神病院に運ばれた。
彼は、精神及び肉体の力を急激に破壊され、毎日やっていることは、友人ブラームスから贈られた地図から、国や都市の名を拾い出して、アルファベット順にならべることくらいだった。
1856年7月27日、妻のクララが最後に訪問したとき、シューマンはほとんど身動きせず、またそれまで数ヵ月、言語にならない声を出すばかりであったが、このときわずかに、「私は知っている」といっただけだった。
28日、彼はひどい全身痙攣に何度も襲われたが、クララとブラームスは、病室の小さなのぞき窓からそれを見ているよりほかはなかった。
29日、彼が死んだとき、そばにはだれもいなかった。クララが呼ばれて病室にはいっていったときは、すでに死後30分を経過していると推定された。
シューマンの死因は、動脈硬化症による精神分裂病であったと診断されているが、若年時から異常な徴候があったというところから見て、やはり動脈硬化以外の素質があったのではないか。

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