じじぃの「メンゲレの人体実験!本当は恐ろしいほど残酷な」

Josef mengele and experiments at auschwitz 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eTnbf0ME5JU&feature=related
Dr. Joseph Mengele 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=CdG2cp5c7r8&feature=fvw
731部隊の真実 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=045PJEhmEyU
反ユダヤ主義 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
反ユダヤ主義ユダヤ人およびユダヤ教に対する差別思想をさす。
反ユダヤ主義の背景】
反ユダヤ主義者の主張には、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、排他的な思想であり、イエス・キリスト殺害の張本人であり、金融業で財を成した」などがある。
ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーからも強い影響を受けていた。ヒトラーはこの2人を「我が人生の師」と呼んでいる。
ヒトラー反ユダヤ主義
ナチズムの聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。
その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。この中でヒトラーはアーリア民族の人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いており、後に同盟をくむ日本人もまた二流民族として扱われていた。
ヒトラーは「ドイツ労働者党」に入党後の1920年8月23日には『ホフブロイハウス』で「ユダヤ人は寄生動物であり、彼らを殺す以外にはその被害から逃れる方法はない」と演説するほどの確固たる反ユダヤ主義者となっていた。
一方スラブ人をも劣等人種として扱っていたが、スラブ人の音楽家であるピョートル・チャイコフスキーセルゲイ・ラフマニノフ、さらにユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンやアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していた。
アウシュヴィッツ強制収容所第二次世界大戦中に、ナチ政権が国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制収容所である。
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者身体障害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者などである。

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『眠れぬ夜の恐ろしい話―西洋残酷人物譚』 桐生操/著 大和書房 2000年発行
双子を偏愛したアウシュヴィッツの死の天使 (一部抜粋しています)
アウシュヴィッツ強制収容所では、ユダヤ人たちを乗せた列車がプラットホームに着くときには、2人の医師がそれを出迎えることになっていました。医師たちは到着した囚人を、ガス室へただちに送られる弱った病人と強制労働に回される比較的元気な者とにより分けねばなりません。たいていの医師たちはこの任務をいやがっていましたが、メンゲレだけはこれをきらうどころか、むしろ楽しみにしていたのです。
メンゲレは優生学的手段によって純粋なアーリア人種の数を急増させる方法を発見しようと焦っていました。そして彼は"双子"こそが、遺伝の秘密を解くためのもってこいの材料だと考えていたのです。他の医師がいやがる囚人たちの選別作業をあえて引き受けたがったのも、実は遺伝の秘密を解き明かすための人体実験に必要な双子を探すためでした。こうしてメンゲレは、主として10歳前後の双子ばかりを、数千組もコレクションしたといわれています。
ふだんは冷静で物静かなメンゲレは、実験がはじまると別人のように冷酷になりました。実験は、最新式の医学器具を備えた病理学の特別実験室で行われました。まだあどけない表情を残した少年や少女たちのやわらかな肌に注射針を突き刺してさまざまな薬品を注入し、容赦なく検査のための体液を絞りとります。激痛のあまり子どもがギャッと叫ぶと、彼は激怒して、「結果が狂ってしまうじゃないか!」と激しく叱りつけるのでした。
さらに、"子供の胃から胃液が退いていく速度"を測定するために何時間も続けて逆立ちさせたり、"失神状態における体温水準"を計るために、真っ裸にした子供たちを冷水と氷を満たした水槽に浸したりしました。
双子のかたわれも、同じように胃液や体液をとられ、体温を測定されました。ただし、もう1人のほうは薬物は注入されません。注入したほうとしなかったほうを比較することが実験の目的だったからでした。そして実験の過程で双子の片方が死ぬと、もう片方もただちに殺され、解剖膣に運ばれました。検視解剖を同時に行ない、病んだ臓器と健康な臓器を比較するためです。
メンゲレは双生児たちを特別兵舎に収容して良好な食事と心地よいベッドを与え、子供たちの目、耳、鼻、上肢、下肢の精密な解剖学的測定を行いました。彼は身体の一部分だけに偏執する癖があり、ときには、1人の少年の耳だけを2時間も延々と測定し続けたこともあったといいます。
メンゲレのユダヤ人憎悪は、ユダヤ教の行事期間にとくに激しく発揮されたようでした。たとえば1944年の贖罪(しょくざい)の日には、収容所の運動場にあるサッカーゴールのポストの横木に手が届かなかったというだけの理由で、1000人ものユダヤ人少年を処刑しています。
あるとき、アウシュヴィッツに勤める1人の病理学者のもとに、3組の死体が送り届けられました。その3組は、片方の目が青色でもう片方の目は茶色という、2眼異色の双子たちでした。2眼異色は双子の場合、非常に珍しいケースだったのです。
病理学者は、ただちにその"2眼異色"の眼をアルコール漬けの標本にしました。そしてそれらに特殊な包装をほどこし、"軍用資材"というスタンプを押して、ベルリンに移送したといいます。
師フォン・フェルシェアと同じく、メンゲレもこの2眼異色に異常に執着していました。ときに、囚人の目に化学染料を注入して、瞳の色を人工的に変えようとする実験も試みていたといいます。この実験だけでも50人余のユダヤ人の子供がモルモットにされましたが、結果は感染症にかかり失明してしまうだけでした。そして残酷な実験の実験の犠牲になって視力を奪われた子供たちは、無情にもガス室へと送られたのでした。
当時、メンゲレの実験室を訪ねたある医師は、こんな光景を改葬しています。実験室の壁一面に棚が打ちつけられ、そこには数百もの人間の目玉が整然と並んでいます。鮮やかなブルー、黄味がかったブルー、灰いろや茶色や紫やグリーン・・・・。人間の目玉の標本が、その一つ一つに番号が打たれ、まるで昆虫の標本のように並べられていたのだといいます。
メンゲレの残酷な人体実験が、遺伝学の分野でどれだけの成果をあげたのか、そして彼の手によって、正確には何人のユダヤ人が殺されていったのかについては、今も明らかになっていません。

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どうでもいい、じじぃの日記。
『眠れぬ夜の恐ろしい話―西洋残酷人物譚』という本を見ていたら「双子を偏愛したアウシュヴィッツの死の天使」が出てきた。
「死の天使」とはヨーゼフ・メンゲレのことだ。
メンゲレは第二次世界大戦ヒトラーの時代、ナチス親衛隊の将校としてアウシュヴィッツで、各地から送り込まれて来た人々から人体実験のための選別を行い、人体実験を行っていた医師である。
双子に特別な興味を持ち、双子の何千もの実験対象を集め人体実験をした。実験のほとんどは学術的価値が無いものだった。当初の実験は身体を比較するだけであったが徐々にエスカレートしていき、子供の目の中へ化学薬品を注入して瞳の色を変更する実験や、人体の様々な切断、肢体や性器の転換など残忍な外科手術が行われた。
1949年、戦争犯罪追及を逃れようとする元ナチ党員の多くとともに、メンゲレはアルゼンチンに逃亡した。1979年、サンパウロ州ベルティオガの海岸で海水浴中に心臓発作によって溺死した。1992年に遺骨からのDNAテストで本人であることが確認された。
アウシュヴィッツの死の天使」は、ついに裁かれることなく世を去った。彼の師であったフォン・フェルシェア博士は、戦争犯罪調査局の尋問を受けたが、自分は帝国学術研究評議会の命令で合法的な医学研究を行っただけだと主張し、何の罪を負うことのなく職に復帰した。カイザー・ウィルヘルム人類学・人類遺伝学・優生学研究所の膨大な研究成果は闇のなかに葬りさられた。
日本でいえば731部隊である。
731部隊は極寒の中国東北部で人体の凍傷実験などを行った。朝鮮人、中国人を「マルタ」と呼んで実験材料にした。彼ら、731部隊の人々もまた、何の罪を負うことがなく職に復帰し、普通に生活しているのである。