じじぃの「人の死にざま_161_アレクサンドロス」

アレクサンドロス3世 - あのひと検索 SPYSEE
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ERT 3 und Makedons.de Interview in der Mannheimer Alexanderausstellung Teil 1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=m7SkJeK5Mbk
アレクサンドロス3世 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
アレクサンドロス3世はアルゲアデス朝のマケドニア王、コリント同盟の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語読みでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。
【東西融合政策】
アレクサンドロスは征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設して経済の活性化をはかり、また図書館などを完備してギリシア文化の浸透を推進し、帝国の公用語ギリシア語を採用した。さらに東西融合に心を配り、自らダレイオス3世の娘を娶りペルシア人と部下の集団結婚を奨励し(しかしこの集団結婚式においてマケドニア人の女とペルシア人の男が結婚するというのはなかったため、アレクサンドロスの意図が対等な融合であるかには疑問の余地がある)、ペルシア風礼式を取り入れ代官に現地有力者を任命した。
【ヘレニズム文化】
ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化がアレクサンドロスの帝国とその後継諸国家で開花し、ラオコオン、ミロのヴィーナス、サモトラケのニケ、瀕死のガリア人などの彫刻が各地で制作された。エウクレイデス、アポロニオス、アルキメデス、エラトステネス、アリスタルコスらの学者も輩出し、その後、古代ローマイスラームに強い影響を及ぼし、東方奥深くに入植したギリシア人はガンダーラ美術に大きな影響を与えた。はるか極東の日本の法隆寺の柱にもヘレニズム文化の痕跡が認められている。

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『目からウロコの世界史』 島崎晋 著  PHP文庫
アレクサンドロス大王はなぜ東方をめざしたのか? (一部抜粋しています)
インドまで伸びる遠征の矛先
ペルシャを占領すれば戦争は終わり、故郷に帰れると、だれもが思っていた。しかしアレクサンドロスの征服行はまだ終わらない。オクサス川(アム川)を越えてソグディアナへ、インダス川を越えてインドへと遠征の矛先はさらに東へ伸びていった。
将兵の不満は高まるばかりだった。ただでさえマケドニアペルシャ化ともいえるアレクサンドロス占領政策−−ペルシャ女性との強制結婚、拝跪礼(はいきれい)、ペルシャ貴族の正規軍へのとりたてなど−−に異を唱える声が少なくなかった。それに加えて、いつ終わるともしれない軍旅である。アレクサンドロスマケドニア兵のあいだは一触即発の危険な状態になりつつあった。前326年、インダス川から東をめざす軍がヒュファシス川に達したところで、兵士たちが強硬に反対を主張。アレクサンドロスもついに遠征の継続を断念する。
前323年、アレクサンドロスは遠征からの帰途、バビロンで息を引きとった。
同時代の喜劇詩人メナンドロスは、
「神々に愛せられる者は若くして死ぬ」
と述べているが、たしかにわずか33年の生涯であった。
アレクサンドロスの最終目的はいったいなんだったのか、いまひとつ定かでない。かれはまだアラビアやカルタゴ、ローマ、シチリアなどの征服を計画していたようであるから、世界征服そのものが目的であったのかもしれない。
アレクサンドロスのカリスマ性があまりに強烈なものであっただけに、かれが亡くなると同時に、帝国はたちまち瓦解していく。有力な将軍たちによる熾烈な後継者争い−−ディアドコイ戦争が40年にわたって帝国各地でくりひろげられ、最終的にセレウコス1世が建てたセレウコス朝シリア、プトレマイオス1世によるプトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス2世によるアンティゴノス朝マケドニアが勝ち残り、3国鼎立(ていりつ)の状態が形成される。
アレクサンドロスの築いた大帝国の領域にはギリシャ(ヘラス)の影響を受けた独特な文化が形成された。これはヘレニズム文化と呼ばれ、かれとかれの後継者が君臨した時代はヘレニズム時台と呼ばれている。この用語は19世紀のドイツの歴史家J・G・ドロイゼンが『ヘレニズム史』のなかで使いはじめたものだ。近年この用語に関しては、あまりにもヨーロッパ偏重の歴史観にもとづくもので、ペルシャをはじめアジアの主体性を無視しすぎているのではないかとの批判がなされている。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
アレクサンドロス大王 (前356-前323) 33歳で死亡。
このヨーロッパのアジア侵略の開祖は、アラビア遠征の準備中、バビロンで熱病にかかり、10日間苦しんだのち、前323年6月13日の夕刻に死んだ。
死ぬ前に将軍たちが、帝国はだれにゆずるべきか、と尋ねたら、アレクサンドロスは答えた。
「最もそれに値する者に」
アレクサンドロス大王にしては、何だかつまらない遺言である。
死ぬ2日前、すでに大王死すという風評が伝わって兵士たちが騒いだので、病室の扉をあけ、兵士たちに武器を捨てさせて下着のまま、1人ずつ枕頭(ちんとう)を通過させて、彼がまだ生きている事を見せた。

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