じじぃの「人の死にざま_157_川端・康成」

川端康成 - あのひと検索 SPYSEE
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あの人に会いたい 作家 川端康成 Re: Think different. 動画 YouTube
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川端康成 ノーベル文学賞受賞 動画 YouTube
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川端康成 ウィキペディアWikipedia) より
川端康成は日本の小説家。
大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)生れ。東京帝国大学文学部国文学科卒業。横光利一らと共に『文藝時代』を創刊し、新感覚派の代表として活躍。伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表し、1968年(昭和43年)に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。1972年(昭和47年)、ガス自殺した。

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文藝春秋 1月号 昭和の肉声 いま蘇る時代の蠢動
昭和43年 おかげさまという気持ち 川端康成 (一部抜粋しています)
『雪国』『千羽鶴』などの著作がある作家・川端康成が昭和43年10月17日、日本人初となるノーベル文学賞を受賞。受賞理由は「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため」だった。
ストックホルムで行われた授賞式に出席した川端は、道元の「春は花 夏ほとほぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり」という歌などを紹介しながら、日本や東洋の美について聴衆に語りかけた。「美しい日本の私」と題されたこの演説は、今なお多くの人の記憶に残っている。
受賞から4年後、仕事部屋でガス自殺。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
川端康成 (1899-1972) 73歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「無用」の世界を描いて、昭和43年、日本人としてはじめてノーベル文学賞を受賞した川端康成は、それ以来俄然として「有用」の世界に生きなければならないことになった。
昭和46年の東京都知事選挙に元警視総監奏野章の応援に立ったなどはその例で、川端の心事は知らず、その活躍は真剣に見えたが、真剣に見えれば見えるほど、客観的にはアブノーマルなものに感じられた。
彼はこのころ一首の歌を作った。
「友みなのいのちはすでにほころびたりわれの生くるは火中の蓮華(れんげ)」
火中の蓮華とは、あり得べからざること、という仏語である。
昭和47年4月16日午後2時45分ごろ、川端は散歩にゆくといって、鎌倉の自宅を出かけたが、夜になっても帰らないので、お手伝いの娘が、9時45分ごろ、川端が仕事用に使っている逗子(ずし)市小坪の逗子マリーナ・マンション4階47号室にいってみると、中から鍵がかかり、強いガスの臭いがした。マリーナの警備員が合鍵でドアをあけてはいったところ、川端康成は洗面所でガス管をくわえて絶命していた。
屍体の皮膚は、ガスの一酸化炭素ヘモグロビン中毒特有のバラ色を呈していた。
神奈川県警の警察医は、検死の結果、死亡時刻は同日午後6時ごろと推定した。鎌倉の自宅書斎にあった「岡本かの子全集」の推薦文が絶筆であった。
かって芥川龍之介が自殺したとき、「芥川氏ともあろう人が(中略)なぜ『或旧友へ送る手紙』のような遺書を書いたかと、やや心外であった。あの遺書は芥川氏の死の汚点だとさえ思った」(『末期の眼』)と批判した川端は、1通の遺書も残していなかった。従って自殺の原因については、三島由紀夫自決の影響だとか、睡眠薬多用の結果だとか、いろいろ取り沙汰されたが、結局真因は不明とされた。
若き日からの友人今東光は記す。
「世間並みに見れば川端が死ななければならない条件は何もないように見える。もし死ぬ必然なものを求めれば彼は幼少の時に死を択んでも不思議ではないのだ。天涯の孤独な孤児川端なら、彼が物心ついた時に世をはかなみ、つたなき運命を悲しんで死んだところで人は寧ろ彼が幸福な道を択んだと言うであろう。
それほどの不幸の中から静かに彼は自分の人生をはじめた人物だ。それなのに今更どうして数え年74歳にして死なねばならないのだ。
彼は文学を志して文壇に登場し、芸術院会員となり、文化勲章を授けられた。更に日本に於いて唯一のノーベル文学賞受賞の栄誉に輝いた。若い時からの病弱の身を保って70歳を越えることが出来た。鎌倉の閑居には素晴らしい書庫付きの書斎も出来た。身辺は国宝級の古美術に満ち溢れ、日本人の多くの敬愛を受け、誠実な夫人の愛情に包まれ、また3月には盲腸の手術も無事にすみ、何所から見ても満足する状態であり、誰が見ても羨望に値する彼が、何故死なねばならなかったのか。
これに明快な回答を与え得る者は誰1人として無いだろうと思う。
ところが僕は敢て言いたいのだ。彼は死んだのではないのだ。彼は単に古き肉体を離脱したに過ぎないのだ。仏画の中に『早来迎(はやらいごう)』という画題がある。これは阿弥陀如来が観音と勢至(せいし)の両菩薩を伴って飛雲に乗じて使者を迎えんとするのに、一刻をも争うて浄土に迎える様相の構図だ。川端は早来迎にむかえられて、万年筆のキャップもしないで急いで飛び出していったのだ。
確かにそれに相違ない。そのために彼は永年連れ添うた妻君にさえ一言の『さよなら』を言わずに、長谷の自邸から逗子の仕事部屋へ行ったのだ」
しかし、ガスが爆発する危険性を彼は考えなかったのか。
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昭和53年4月に、臼井吉見は『事故のてんまつ』という作品で、川端がお手伝いの娘を愛し、拒絶された悲しみが自殺の原因だと書き、川端の遺族から名誉棄損で訴えられるという裁判沙汰をひき起こした。川端をよく知る川口松太郎はいう。「川端はそんなことで死ぬような肝(きも)の小さい男ではない」
彼は気にいった骨董(こっとう)を見つけると金の有無にかかわらず持って帰る人物で、死後骨董商に数千万の未払いがあった。

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『雪国』 川端康成
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れ込んだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
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