じじぃの「人の死にざま_488_円谷・幸」

円谷幸吉 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89/2670/
円谷 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=2f7DhFHKAPA&feature=related
銅メダリスト円谷幸吉 さんの遺書 【一人の道♪】 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=TYWruGl8CoU&feature=related
円谷幸吉 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
円谷幸吉は日本の陸上競技長距離走・マラソン)選手、陸上自衛官
福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)出身。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。中央大学経済学部卒。
東京五輪で栄光の銅メダル】
東京五輪本番では、まず陸上競技初日に行われた男子10000mに出場し、6位入賞と健闘。これは日本男子の陸上トラック競技では戦後初の入賞であった。一方、最終日に行われる男子マラソンについては、君原が日本人では最有力と目されており、円谷は経験の少ないためあまり注目はされていなかった。
しかし、男子マラソン本番では君原や寺沢徹がメダル争いから脱落する中、円谷だけが上位にとどまり、ゴールの国立競技場に2位で戻ってくる。だが、後ろに迫っていたイギリスのベイジル・ヒートリーにトラックで追い抜かれた。これについては、「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めを愚直にまで守り通したがゆえ、トラック上での駆け引きが出来なかったことが一因として考えられている。とはいえ、自己ベストの2:16:22.8(結果的に生涯記録となる)で3位となり、銅メダルを獲得した。これは東京五輪で日本が陸上競技に於いて獲得した唯一のメダルとなり、さらに男子10000mと合わせて2種目入賞も果たして「日本陸上界を救った」とまで言われた。
【突然の自殺】
メキシコシティ五輪の開催年となった1968年、年明け間もない1月9日に、円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にてカミソリで頚動脈を切って自殺。
川端康成は『円谷幸吉選手の遺書』を発表し「繰り返される《おいしゅうございました》といふ、ありきたりの言葉が、じつに純ないのちを生きてゐる。そして、遺書全文の韻律をなしてゐる。美しくて、まことで、かなしいひびきだ」と語り「千万言も尽くせぬ哀切」と評した。(「風景」1968年3月号)また、当時の関係者からは「ノイローゼによる発作的自殺」「選手生命が終わったにもかかわらず指導者に転向できなかった円谷自身の力不足が原因」など様々な憶測が語られたが、三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』で、これらの無責任な発言に対し「(円谷の自殺は)傷つきやすい、雄雄しい、美しい自尊心による自殺……この崇高な死をノイローゼなどという言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きている人間の思い上がりの醜さは許しがたい」と強い調子で批判した。なおその後、三島由紀夫は1970年11月に、さらに川端康成も1972年4月に、2人共に奇しくも円谷と同じく自殺により他界した。

                                  • -

『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
円谷幸吉つぶらやこうきち) (1940-1968) 28歳で死亡 (一部抜粋しています)
昭和39年の東京オリンピックのマラソンで、1位エチオピアアベベ、2位イギリスのヒートリーにつづいて、3位にゴールインした直後、精魂つきはてたかのように倒れて、その必死の力走を印象させた朴訥(ぼくとつ)律儀な円谷幸吉は、以後日本のマラソンホープとなってトレーニングに励んでいたが、メキシコ・オリンピックの開催される昭和43年の1月9日、東京練馬の朝霞陸上自衛隊体育学校の幹部宿舎2階の個室でカミソリ自殺をとげた。
午前11時ごろ、隣室のレスリング選手小泉正喜三尉が円谷が点呼に出ないのを怪しんでノックをしたが返事がなく、ドアをこじあけてはいってみると、幸吉はベッドの上で、シャツとズボン姿で仰むけになったままこときれ、ベッドの下は血の海で、そのなかに折りたたみ式のカミソリが落ちていた。彼は右の頸動脈を切断していた。
机の上に遺書があった。それには父母や兄姉に、「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、モチも美味しゅうございました」にはじまり、すし、ブドウ酒、リンゴ、しそめし、南蛮づけ、ブドウ液、養命酒、モンゴいか、等、各人に、妙に食い物の礼ばかり述べてあったが、最後に、
「父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません」
という文章があった。
川端康成はこの遺書を「千万言もつくせぬ哀切」と評し、三島由紀夫は「壮烈な武人の死」と評し、スポーツ評論家川本信正は「円谷は日本人の愛国心に殺された」と評した。
朝日新聞記者中条一雄によれば、幸吉の自殺は、足と腰の故障のほかに、彼は美しい恋人があったが、体育学校の校長が、オリンピックをひかえて恋愛沙汰はまかりならぬと交際を禁じ、2ヵ月前にその女性がほかの男性に嫁(とつ)いだことによるという。

                                  • -

円谷幸吉 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=JasuTYPMIo2evQPhlJyECQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCUQsAQwAA&q=%E5%86%86%E8%B0%B7%E5%B9%B8%E5%90%89%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1