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ベンジャミン・フランクリン - あのひと検索 SPYSEE
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ベンジャミン・フランクリン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ベンジャミン・フランクリンは、アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。現在の米100ドル紙幣に肖像が描かれている他、ハーフダラー銀貨にも1963年まで彼の肖像が使われていた。
勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、すべてのヤンキーの父として讃えられる。『フランクリン自伝』はアメリカのロング・ベストセラーの一つである。

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『人類の歴史200万年』 READERS DIGEST 1980年発行 (一部抜粋しています)
新しい人間 フランクリン
ジェファーソンの独立宣言作成を手伝った人々のなかに、18世紀アメリカの中産階級文化の代表者、ベンジャミン・フランクリンがいる。ボストンに生まれた彼は、努力して貧困から身を起こした。彼は印刷工、新聞記者、小冊子の作者、そして商人としての成功によって財産を作り、42歳で引退し、残る42年を、郵便局長、外交官、大使として公職にささげた。彼は警察力を強化し、街路を舗装し、照明をほどこして、フィラルデルフィアを一変させた。アメリカ哲学会、ペンシルバニア大学、アメリカ最初の巡回図書館の創設者も彼である。彼は独立する前から、新生共和国にとって有効な郵便業務を始めさせている。
フランクリンは電気の実験者であり、仲間付き合いと談笑を愛し、安楽と人生の美点を好む気取らない男であったが、同時に、理想主義者、懐疑主義者でもあった。彼は"世界市民"と考えられたが、これも彼が残したアメリカ人的特性の1つである。独立戦争の間、パリ駐在アメリカ大使でもあった彼は、1778年に調印されたフランスとの同盟で、非常に責任ある役割を演じている。この同盟は戦勝に役だった。1783年のパリ条約の協定により、イギリスは合衆国の独立を承認し、ミシシッピ川を西部国境とすることに応じたのである。新生の、独立した連邦共和国が誕生した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
フランクリン (1706-1790) 84歳で死亡。(一部抜粋しています)
アメリカの一般大衆に最も尊敬される歴史的人物は、ワシントンよりこのベンジャミン・フランクリンであるという。
印刷屋の小僧から成功し、政治家、外交家、実業家、社会事業家、思想家、文筆家、科学者(特殊な装置を施した凧をあげて、雷と電気が同じものであることを証明した話は有名だ)・・・・そのいずれにも独創力と万能ぶりを示す一方で、人間的にも、自由と勤勉を愛し、人権と福祉への奉仕に勤め、愛国的で寛容で楽観的で、要するに「よきアメリカ人」の典型のような人物であったとされる。
生来健康を誇っていた彼も、1788年ごろから胆石に苦しむようになり、有名な『フランクリン自伝』のおしまいのほうはベッドの上で書いた。
1790年の春になると、胸痛を訴え、「ちゃんと死ねるようにベッドを整えてくれ」と命じた。娘が、「そんなことをおっしゃらないで、お父さまにはもっともっと長生きしていただかなくっちゃ」というと、「私はそうは思わないね」と答え、その呼吸が苦しげなのを見て、「もっとラクな姿勢をなさっては」と娘がいうと、彼は、「死にかけている人間は、どんな姿勢をとってもラクじゃないのだよ」と答えた。さすがに生来の寛容性も失われたようだ。
そのうち胆石に肋膜炎を併発し、4月17日午前11時に息をひきとった。

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【次代への名言】4月17日 ベンジャミン・フランクリン 2009.4.17 MSN産経ニュース
「わたしは、齢(よわい)を重ねれば重ねるほど、自分の判断を疑い、他者の判断により一層の敬意を払うようになった」ベンジャミン・フランクリン
 フランクリンは米ボストンで、ろうそく・せっけん職人の十男として生まれた。植字工見習から身を起こし、印刷業や地方新聞の経営で成功をおさめるかたわら、作家としても頭角を現す。そして、凧(たこ)を使った有名な実験で雷は電気であることを証明し、科学者として欧米中に名を知られるようになった。
 大政治家でもある。一例を挙げれば、フランスの参戦をうながし、独立戦争の大きな転換点となった米仏同盟は、特使として派遣されていたフランクリンを抜きにしては語れないだろう。
 「徳を積むということは例外なしに自分の利益につながる(中略)正直と誠実以上に、貧しい人間が立身出世するのに役立つ徳はない」(『自伝』)。そう説いた彼は、維新後の日本にとって、立志伝中の人物の模範となった。
 フランクリンは1790年のきょう、84歳で没する。最後の大業はその3年前、米国憲法会議での進退であろう。彼は大統領制や二院制に反対した。しかし、最後にはあえて自説を捨て、全会一致で憲法案を採択するよう訴える演説を代読させた。冒頭はそのなかの一節だ。
 「代表的米国人」。後世がそんな彼にささげた称号である。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090417/acd0904170344001-n1.htm
ベンジャミン・フランクリン Google 画像検索
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