じじぃの「人の死にざま_587_D・グリオン」

ダヴィド・ベン=グリオン - あのひと検索 SPYSEE
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ベングリオン大学
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ダヴィド・ベン=グリオン フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
ダヴィド・ベン=グリオン(1886年10月16日-1973年12月1日)は、イスラエルの政治家。首相(初代・第3代)を務めた。
ポーランドのプロンスクで生まれ、パレスチナ移住後はユダヤ系住民のイギリス軍への参加を呼びかけると共に、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ系難民がパレスチナへ押し寄せる様になると、これを規制しようとするイギリス当局と折衝して難民受け入れに尽力した。
1947年に国際連合パレスチナ分割を決議するとメナヘム・ベギンら率いるイルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えながら、独立への準備を進め1948年5月14日にイスラエルの独立を宣言した。
シオニズム
シオニズムは、イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建しよう、あるいはユダヤ教ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の復興運動(ルネサンス)を興そうとするユダヤ人の近代的運動。後者の立場を「文化シオニズム」と呼ぶことがあるが、実際には様々な関係があると思われる。「シオン」(エルサレム市街の丘の名前)の地に帰るという意味である。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈上巻〉指導者・革命家・科学者・思想家・起業家 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【指導者・革命家】ダヴィド・ベン=グリオン 【執筆者】アモス・オズ (一部抜粋しています)
ダヴィド・ベン=グリオンは、頭がやたらと大きい病弱な子供だった。しかしそのころから、自分が次に何をなすべきか、ユダヤ人は何を目指すべきか、自分の歩みと『聖書』に書かれている約束の地でのユダヤ人の解放とはどう関係するのか、ということを常に明確に理解していた。
ベン=グリオンは知識人になることにあこがれていた。指導者の地位に就き、もっとも劇的な変化に見舞われた時期でさえ、哲学書をむさぼるように読み、『聖書』を講釈し、仏教をかじり、プラトンを原書で読むために独学で古代ギリシャ語を学ぶことさえした。自然科学についても飽くことのない好奇心を持っていた(しかし、小説や美術には興味がなかった)。論的を激しく攻撃する時はスピノザを引用した。対話ではなく論戦が、彼のいつものコミュニケーションのとり方だった。彼は哲学者というよりはむしろ歩く感嘆符であり、聖者の光輪を思わせる銀髪で、他を圧倒する意志の力と火山のような気性の激しさを示すあごをした、ガードの堅い気難しい男だった。
ポーランドユダヤ人として、小さな町の抑圧されたどん底の生活が、彼の出発点だった。彼は1906年にそんな生活に別れを告げた。ユダヤ人の伝統を重んじ、シオニズムを鼓舞する環境で育ったことに影響され、東欧における反ユダヤ主義者の虐殺行為に衝撃を受けた彼は、当時のシオニズムのスローガンどおり「民族のすみかを建設し、それによって民族を作り直すために」、トルコ支配下パレスチナを目指した。彼は開拓者となり、農場労働に従事し、初期のシオニスト社会主義のグループとともに活動した。彼は19歳にしてすでに、その一生を貫く人間像を形作っていた。それは、メシアを待望するユダヤ教の世界観と社会主義の理想とを結びつけた世俗的なユダヤ民族主義者であり、指導者の地位への猛烈な野心と卓越した政治的駆け引きの術を持ち、ユーモアのセンスよりはむしろ切れ味鋭い皮肉のセンスを身につけた男だった。
1915年、民族主義社会主義的活動のためにパレスチナから追放されたベン=グリオンは、ニューヨークに行くことを選んだ。ここで彼は大急ぎで独学で英語を学び、その他のシオニスト社会主義運動に飛び込んだ。とはいえ、米国に滞在したこの3年の間に、彼の尊大で、ほとんど横暴に近い性格と、レーニンの革命とそのリーダーシップへの憧憬は、アメリカの民主主義の影響を受けて弱められた。かなり後になって彼は、民主政治を「一時延期する」よう一部の同胞から再三説得されたことがあったが、これを拒んでいる。
第一次大戦後、彼はパレスチナに戻ったが、パレスチナは今度は英国によって支配されており、そして――1920年以降は――国際連盟によってユダヤ人の「民族的郷土」と称された。彼は精力を伸ばしていたシオニスト社会主義運動の中で頭角を現した。20年代、30年代には、欧州における反ユダヤ主義がますます激しさを増し、そのため、パレスチナにはユダヤ人の移民の波が押し寄せた。腹を立てたアラブの指導者たちは、英国に対する反乱とユダヤ人に対する聖戦を開始した。ベン=グリオンはほかの人々よりもはるかに早い時期から、シオニズムに対するアラブの反発の深刻さとその根拠を理解していた。彼はひとつの土地に対するふたつの純粋な要求がぶつかり合うことの悲劇的な本質に気づいていた。この問題についての彼の立場はタカ派的ともハト派的ともいえない。彼は、住む場所のないユダヤ人のために独立した国をつくることは、迫害されるユダヤ人が生き残るために絶対必要な備えだと考えていた。
(極右の立場をとる人間からは)裏切り者のレッテルを張られ、(教条的な左派からは)日和見主義者と見なされるという犠牲を払っても、ベン=グリオンはアラブ側の要求をかなり受け入れる覚悟をしていた。とはいえ彼は、ユダヤ人がアラブ人との雌雄を決する対決を避けるために、もしくは、そのような対決が起きた場合にユダヤ人が生き残るために、影の国家と影の軍隊を創設しなくてはならないことを予見した最初の人間のひとりでもあった。
ベン=グリオンは国家と軍隊の両方の偉大な設計者であり、建設者であった。1936年から47年まで、何百万に上るユダヤ人がドイツ人によってかき集められて殺され、ほとんどすべての国から保護を拒まれた。英国からはパレスチナへの定住を阻まれた。この悲惨な時期を通して、ベン=グリオンは複雑な戦術を巧みに練り上げた。彼はパレスチナの何万人ものユダヤの若者を鼓舞して英国軍に加わらせ、ナチスと戦わせながら、その一方で、ユダヤ人難民をパレスチナに輸送することを地下組織に託した。英国がナチスの地獄を逃れてきたこれらの人々を捕らえて移送し、有刺鉄線に囲まれた収容所に入れている間に、世界の論調はユダヤ人をこの苦境から救うためのシオニストの解決案にしだいに共感を示すようになっていった。この戦術は、パレスチナユダヤ人国家とアラブ人国家に分割するという47年の国連決議につながるユダヤ人に好都合な雰囲気を作りあげるのに役立った。
だが、英国軍が撤去する前からすでに、ユダヤ人に対する攻撃が国中で野放しの状態になっていた。米国政府の土壇場の勧告を無視し、一部の側近の、ユダヤ人国家の建設は破滅するとの予言を退けて、1948年5月14日、国連決議に従って、ベン=グリオンはイスラエルの独立を宣言した。これに対し、数時間のうちに、ユダヤ人の駆逐を合言葉にアラブ5ヵ国の軍隊がイスラエルに進行し、パレスチナ民兵と合流した。数度にわたる中東戦争の中でも、この戦いは最悪のものだった。ユダヤ人の人口の1%が死亡し、アラブ人も何千人もの犠牲者を出した。50万人以上のパレスチナ人が家を失った。逃亡した者もいれば、イスラエル軍に追い出された者もいた。
1年半におよぶこの宿命の戦いにおいて鉄のような意志を持ってリーダーシップを発揮したベン=グリオンは、シオニストのリーダーたちの中で、「共産主義のリーダー」から、現代のダビデ王に変わった。痛ましいまでに分断されたユダヤ人社会に、まとまりのある多数派による統治という伝統を植えつけようと一生をかけて闘ったことこそベン=グリオンが発揮したもっとも重要なリーダーシップであり、これは部分的に成功した。ユダヤ人社会は、数千年もの間、いかなる形の自治も経験したことがなく、宗教上の権威すら持たなかった。建国間もないころ、多くのイスラエル人は、ベン=グリオンをモーゼとジョージ・ワシントンガリバルディと全能の神を合わせたような存在と見なしていた。崇拝者にも、猛烈な反対者にも、ベン=グリオンの怒れる父という人が等は、強い感情を呼び起こした。それは畏怖の念であり、怒りであり、賞賛であり、恨みであった。1959年に初めて彼に会った時、わたしは彼の肉体的な強靭さに魅了された。彼は快活な人物で、ほとんど荒々しいまでに活発だった。彼の議論には握りこぶしのような固さがあった。大胆で、農夫のように単純で、辛辣で、引き込まれるように温かく、ごくまれに愛想のいい瞬間があると、陽気で子供のような好奇心をのぞかせた。
1949年から55年にかけて、アラブ諸国イスラエルをゲリラ攻撃と報復攻撃の悪循環に引き込んだ。1956年、エジプト軍の集結に気づいたベン=グリオンは、シナイ半島を襲撃して対立を激化させた。この作戦は、エジプトに対する英仏の襲撃と協調して行われた。これはその後のアラブ諸国にとって、イスラエル帝国主義の先兵であるというさらなる証拠だった。イスラエル側にとっては、これは比較的平和な11年間を確保するためのベン=グリオン流のやり方であった。
69年の6日戦争における電撃的勝利は、領土拡張への飽くなき欲望と、聖地への強烈なこだわりを喚起した。80年代になっていた「長老」は、最後の声を張り上げた。彼はエルサレムを分断させるなと主張した。だがそれ以外は、新たに手に入れた地域への執着は抑えなければならないし、平和と引き換えならそれらの土地も放棄しなければならない、と述べた。1973年の10月戦争の勃発は天罰であり、現実からの激しい平手打ちであり、1967年以降のイスラエルの傲慢と道徳的冷血さを打ち砕いた。ベン=グリオンはこの戦争の数週間後に亡くなり、傷つき自信をそうしたイスラエルは、大きな損失を悲しみ、長期にわたる魂の探求の時代に入っていった。

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