じじぃの「人の死にざま_1039_J・ヘンリー」

ジョセフ・ヘンリー - あのひと検索 SPYSEE
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Motor Joseph Henry 動画 YouTube
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扇風機で涼む猫 動画 YouTube
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ジョセフ・ヘンリー ウィキペディアWikipedia)より
ジョセフ・ヘンリー(Joseph Henry、1797年12月17日 - 1878年5月13日)はアメリカの物理学者。スミソニアン協会の初代会長として、米国の科学振興に尽くした。生前から高く評価されていた。イギリスのマイケル・ファラデーとほぼ同時期に電磁誘導(相互誘導)を発見したが、ファラデーの方が先に発表している。電磁石を研究する過程で自己誘導という電磁気の現象(コイルに逆起電力が生じること)を発見。電磁誘導(インダクタンス)のSI単位ヘンリーに、その名をとどめる。また継電器を発明し、サミュエル・モールスやチャールズ・ホイートストンが電信を発明する基礎を築いた。
【生涯】
1830年、マイケル・ファラデーより先に電磁誘導を発見したが、発表が遅れたため、発見の功はファラデーに譲ることとなった(1831年)。1831年には電磁気を動力源として動く世界初の機械を作った。電動機の元となったものである。ただし回転運動ではなく、棒の先の電磁石が前後に振動する形だった。これは棒が振れたときに2つの電池の一方と接触して電磁石の極性が逆転し、反対方向へ動く力が生じる仕組みだった。この実験からヘンリーは1832年に自己誘導を発見した。
ヘンリーは多くの発明をしたが、一切特許化はせず、これらの成果をもとに他の人間が製品化することを大いに援助した。1835年にヘンリーが発明した継電器(リレー)は電信機の発明(1837年)の基礎となった。このサミュエル・モールスによる発明に対し、ヘンリーは多くの支援を行った。
1842年、ライデン瓶の放電による電磁振動を発見。
1845年から47年にかけて、天文学者ティーブン・アレクサンダーと共に太陽黒点の観察を行い、サーモパイルを使って黒点が周囲より温度が低いことを明らかにした。この成果は天文学者アンジェロ・セッキがさらに発展させたが、ヘンリーの関与が正当に評価されたかについてはやや疑問がある。

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アシモフの科学者伝』 アイザック アシモフ/著 小学館 1995年発行
ジョセフ・ヘンリー――電気を力に変えた男 (一部抜粋しています)
アメリカの発明史のなかでも、非常に劇的なできごとの1つが、1844年5月24日に起こった。
ボルチモアからワシントンまで、70キロにわたって電線がひかれた。その電線の一方のはしに、画家から発明家に転向したサミュエル・F・B・モールスがいて、キーを押したり離してたりしていた。キーを押すと回路が閉じ、離すと回路が開く。彼は、そのキ―をトン、ツー、トン、ツーといったぐあいに、点と線の形になるように押した。それは、アルファベットの文字をあらわしていた。70キロ離れたところでは、強いさな鉄片が、キーの動きに正確に対応して、首をあげたり下げたりしていた。そのたびに、カチッ、カチッと音がしたが、その長短の並び方は、1つの文章を示していた。「神は、なにをつくり給うたか」。
モールスは、名声を得てもおかしくない人物である。彼は何年ものあいだ、電信の実用化のために努力した。ヨーロッパにも渡って、特許をとろうと努めた。実験のための予算を得ようとして議会に働きかけ、うまくゆかずに失望し、力を落したこともあったが、そのような苦境にもよく耐えた。
だが、電信を発明したという名誉は、モールスが受け取るべきものではない。なぜなら、何年も前にジョセフ・ヘンリーが同じ装置を作っていたからである。
ジョセフ・ヘンリーは、1797年12月17日、ニューヨーク州のオルバニーで生まれた。イギリスのマイケル・ファラデーよりも6年遅い誕生だが、その生涯はファラデーの一生によく似ている。
ファラデーと同じように、ヘンリーは貧しい家庭に生まれた。ファラデーと同様、彼はほとんど学校に通わず、若いうちから働かねばならなかった。ヘンリーは、13歳のとき、時計屋へ徒弟奉公に出た。この点で、ヘンリーはファラデーよりも不運であった。なぜなら、ファラデーのように書物に接するチャンスがなかったからだ。もし、奇妙なできごとがなかったら、少なくとも、彼は書物に接する機会を持てなかっただろう。
話というのは、こうである。
16歳のとき、ヘンリーは休みをとって、親類の農場へ遊びに行った。そのとき、ウサギを追いかけて、教会の床下にもぐりこんだ。すると、床板の一部がはがれていた。ヘンリーはウサギを追うのをやめて、教会の中を”探険”することにした。
そこで、ヘンリーは書棚を見つけ出した。そこには、博物学の本が1冊あった。彼は、好奇心からその本のページをめくってみた。その本は、たちまち彼の野心に火をつけ、それがきっかけとなって、彼は学校に戻ったのである。
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1829年、ヘンリーは、電磁石を使って円板を急速に回転させることに成功した。電磁石の両極のあいだに円板を置き、電気を流すと円板がまわるのだが、彼はこの装置のことを1831年に発表した。これは、ファラデーが発明した発電機とは、逆のものであった。発電機では、回転する円板によって、機械的な力が電気に変えられる。一方、ヘンリーの装置では、回転する円板が、電気を機械的な力に変えるのに使われた。ヘンリーは、はじめて「モーター」を発明したのである。
ヘンリーの電磁石とヘンリーのモーターとは、今日でも、ほとんどなんの変更もなしに使われている。
1846年12月、ヘンリーはスミソニアン博物館の館長になった。この博物館は、イギリス人スミソンの遺産によって、その当時ワシントンに創立されたばかりであった。これは、ヘンリーの生涯に新しい段階を開いた。ヘンリーは科学の行政官になったのである。
彼は、ここでも第1級の仕事をした。博物館を科学知識の交換所にして、世界のはしからはしまで、科学の情報がゆきわたるように努めた。ヘンリーは国際的な名声を得たが、それはアメリカの科学者としては、ベンジャミン・フランクリン以来のことであった。
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ファラデーの発明によって、安い電気を作ることができるようになり、産業革命が工場から各家庭へと持ち込まれたが、もしヘンリーの電磁石とモーターがなかったら、どんなに大量の電気が各家庭に送り込まれても、ほとんどなんの役にも立たなかっただろう。モーターのおかげで、冷蔵庫、洗濯機、乾燥機、ミキサー、電動タイプライター、電動ミシンをはじめ、およそ動く部品を持ったほとんどの電気器具が可能となったのである。

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