じじぃの「人の死にざま_116_始皇帝」

始皇帝 -勇壮なる闘い- 動画 YouTube
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兵馬俑坑.wmv 動画 YouTube
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『目からウロコの世界史』 島崎晋 著  PHP文庫 2006年発行
秦の中国統一 短命ながら中国史上に燦然と輝く王朝 (一部抜粋しています)
中国統一は秦王政(さい)によって達成された。前221年のことである。政は自分の遺業を後世に伝えたいと考え、そのため王にかわる新しい称号「皇帝」号を創設した。始皇帝(在位前247〜前210年)の誕生である。
新国家の政体については、封建制を求める意見が多かったが、始皇帝はこれを排して郡県制を布いた。周の轍(てつ)を踏まないようにとの考えもあって、中央政権体制をとったのである。度量衡、貨幣、車轍、文字書体の統一など矢継ぎ早に命令を下したのも、旧6国の遺風を1日も早く消し去り、天下統一の実をあげたいという強い意志のあらわれであろう。
しかし秦の世はあまりに短かった。その統治が不評にすぎたからである。人びとは厳しい法の支配下におかれたばかりか、遠征への従軍、辺境への強制移住万里の長城阿房宮・陵墓建設など多くの労役を課せられ、その重圧・負担はとてもではないが長く耐えられるものではなかった。人びとの憤懣(ふんまん)はまず始皇帝の死後まもない前209年の陳勝呉広の乱となってあらわれ、その後、全土で反乱が相次ぎ、秦は前206年に滅亡する。
秦が短命に終わった理由として、司馬遷は『史記』のなかでつぎのように指摘している。
「秦は戦国を離れてすでに天下の王となったのに、道も変えなければ政治も改めなかった。これは創業のやり方であっても、守成の方法としては、もっと変えねばならなかった」
秦滅亡後の混乱のなかで、最後まで勝ち残ったのは劉邦(りゅうほう)だった。ライバル項羽(こうう)を破って天下統一を果たした劉邦は前202年、皇帝の位につき漢王朝を創立する。奏は滅んだが皇帝の号は受け継がれたのだ。ほかにも後世に継承された始皇帝の遺産は少なくない。その最たるものが統一国家としての雛形であろう。奏はきわめて短命だったが、中国史にもっとも大きな影響を残した王朝といっていいだろう。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
秦の始皇帝 (前259-前210) 49歳で死亡。
はじめて中国を統一し、万里の長城を築き、阿房宮を作り、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)という独裁者の先例を生んだ始皇帝は、一方で徐市(じょふつ)という道士に不老不死の薬を求めて船出させたが、老いと死はついにふせげなかった。いや、老いの来る前に死の運命を迎えなければならなかった。
皇帝の位にあること10年、揚子江沿いの南支一帯を巡遊し、都の咸陽へ帰る途中、山東の平原津で死病にかかった。コレラのような急激な時疫ではなかったかといわれる。
史記に、「始皇は、死を言うを悪(にく)んだので群臣あえて死のことを言うものなし」とある。
始皇帝はなお病をおして旅をつづけたが、7月、 沙丘の平台で歿した。
天下大乱を怖れた惟握(いあく)の民は、その喪を伏せ、おんりょう車と名づける一種の箱馬車に遺骸をのせ、奏事、食事、生けるものに対するように旅をつづけたが、九原あたりから屍体の悪臭甚だしく、車に一石(こく)の干魚をつんでその匂いをごまかして、やっと咸陽に帰還した。
その埋葬に際しては、彼の愛妾にして子なき者はことごとく墳墓に生き埋めにされ、この秘事を知っている工匠たちもまた生き埋めにされた。
始皇帝の死後4年にして、秦は滅んだ。
近年に至り、始皇帝陵をめぐっておびただしい兵馬傭(よう)が発掘され、その数と精巧さは人々を驚倒させた。

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第2回 秦と始皇帝の時代
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