じじぃの「人の死にざま_107_ナポレオン」

ナポレオン・ボナパルト - あのひと検索 SPYSEE
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『目からウロコの世界史』 島崎晋 著  PHP文庫 2006年発行
全ヨーロッパを席巻した英雄ナポレオン (一部抜粋しています)
ナポレオン・ボナパルトは1769年コルシカ島の小貴族の家に生まれた。フランスで軍人となる道を選び、93年12月のトゥーロン港奪回戦での軍巧を認められ、翌年3月にはイタリア遠征軍司令官に任命される。そして、このイタリア遠征はかれの名をさらに確かめる結果となった。ある有力政治家は凱旋したナポレオンを、「フランスはただかれの力によってのみ自由になるだろう」
と評したというが、ナポレオン自身ものちにこの遠征を顧みて、このときに「自分をたんなる将軍としてではなく国民のいく末に影響をおよぼすべく運命づけられた一人の男とみなすにいたった」と回想している。
総裁政府(1795年、国民公会にかわって成立)から一目おかれるようになったナポレオンは、68年5月よりエジプト遠征にでる。イギリスとインドの連絡路を断つことを第一目的としたこの遠征は、結局は失敗に終わるものの、学術の分野では大きな成果をあげることとなった。同行した学者・技術者・芸術家は170名あまり。ロゼッタ・ストーンの発見をはじめ、かれらの残した業績は計り知れない。
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1812年ロシア遠征はナポレオンにとって致命傷となった。大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開したロシアを懲罰するために出兵したのだが、これがとんでもない誤算だった。ロシアのクトゥーズフ将軍(1745〜1813年)の退却戦術によって奥地へと引き込まれたフランス軍は、モスクワを占領するものの冬将軍の到来と補給路を断たれたことでたちまち窮地に陥り、占領から一ヵ月後には撤退を迫られる。飢えと寒さ、そして波状的に繰り返されるロシア軍の追撃の前にフランス軍はみるみる数を減らしていき、60万と号した大軍のうちフランスに生還できた者は2万あまりにすぎなかった。
急激に弱体化したナポレオンに、プロイセンオーストリア、ロシア、イギリスの対仏同盟軍が戦いを挑んだ。1813年10月、最大の決戦がライプツィヒでおこなわれ、戦いは同盟軍の勝利に帰す。ナポレオン体制は、たちまち崩れ去り、同盟軍が東西からフランスに侵攻。ナポレオンは廃位させられたうえ、エルバ島へ流された。
これで幕が閉じていたら、ナポレオンの名声もさほどではなかったのかもしれない。だがこれは、最後にもうひと波乱起こしてくれた。戦勝各国はウィーンに集まり戦後の秩序づくりについて話し合っていたが、互いの利害がからんで交渉がまとまらず、いたずらに舞踏会が繰り返されるばかりだった(「会議は踊る」)。一方フランスでは、復活したブルボン王朝が不人気であった。再起の勝算は充分にあると読んだナポレオンはエルバ島からの脱出を図る。フランスに上陸したナポレオンに討伐軍が向けられるが、かれはこれを味方につけフランスに凱旋。1815年3月、帝位に返り咲く。
ふたたび同盟軍が結成され、6月18日、決戦の日を迎える。戦場はワーテルロー。イギリスを主力とする同盟軍は6万8000、対するフランス軍は7万2000とほぼ互角の態勢だった。正午すぎにはじまった戦闘は容易に勝敗が決しなかったが、夕刻7時半頃、プロイセン軍6万5000が戦場に到着するにおよび、戦況は一気に傾いた。フランス軍は総崩れになり、ナポレオン復活の野望も「百日天下」で終わったのである。ナポレオンは南大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、1821年に世を去る。
こうしてフランス革命勃発以来続いたヨーロッパ世界の動乱をひとまず沈静化した。だが、新たな動乱の種はすでに播(ま)かれていた。ナポレオンの胸のうちはともかく、その征服事業によって広められたフランス革命の理念は、それぞれの地で独自の成長を遂げ、自由主義民族主義の萌芽を促すことになったのである。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ナポレオン (1769-1821) 52歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「余が死んだら人は何というかね」
と、かってナポレオンは部下に訊いたことがある。部下が返事に窮していると彼はいった。
「何ともいわないさ、ただ、ふん、というだけだよ」
1815年6月、ナポレオンはワーテルローの戦いに敗れた。英国はフランス側による死刑を望んだが、ルイ18世は国民的英雄を処刑する責任を負(お)うことを拒否し、結局大西洋の孤島セント・ヘレナに流刑となった。それは岩だらけで、肝臓病の風土病のある島であった。
彼はイギリスの軍司令官ハドソン・ローの監視下に置かれた。幽閉されている館のまわりは深い濠(ほり)にかこまれ、2連隊の英兵によって監視され、島の周囲もたえず英艦によって哨戒されていた。
ナポレオン1行は計51人、その費用は年に1万8000ポンドということになっていたが、ロー司令官はこれを勝手に削って、自分の年俸と同額の1万2000ポンドとし、さらに8000ポンドとした。そのためにナポレオンは、ついには自分の銀の食器まで売らなければならなかった。
彼は、いつも昼近くに起き、午後も寝衣を着たままでいることが多かった。彼は無為であるよりほかはない生活に追いこまれた。
数年にしてナポレオンは、食欲不振と足のむくみを訴えるようになった。
やがて侍医として派遣されて来たフランソワ・アントマルシーというコルシカ生れの29歳の医者は、フィレンツェで解剖を学び、大学で解剖助手をやっていただけの、臨床には素人に近い医者であった。しかも怠け者で軽はずみで観責任なこの若い医者は、次第に健康の悪化してゆくナポレオンに、ほとんどまともな治療を行わなかった。
ついにナポレオンは悲鳴をあげた。
「私ほどひどく扱われた病人がいたであろうか。あの馬鹿にはもう相手にならぬ」
1821年3月から、彼は病床についたままになった。
彼は「ナイフをつき刺して、えぐりまわるような痛み」に苦しんだ。
4月に「私はイギリスの暗殺者に殺されるのだ。・・・・私の骨はセーヌ川のほとりに埋めてくれ」と遺言した。
5月5日午後5時、「神よ、フランス国民、私の息子、軍隊の先頭・・・・」と、とぎれとぎれにつぶやきながらナポレオンは死んだ。そのとき左の眼から涙がこぼれ、しずかに頬をぬらしたという。
翌日、アントマルシーはほんとに解剖してみて、死体の胃壁の8分の7までがひどい病変に冒されているのを見て眼をまるくした。
ボナパルトの遺体は島を離るべからず」というハドソン・ローの命令のために、その遺体がセント・ヘレナからパリに帰ることが出来たのは19年後のことだった。
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彼の死因については、胃ガン説のほかにさまざまの憶測があり、1964年にイギリスの薬学者ハミルトン・スミス博士が、ナポレオンの遺髪(散髪するとき側近がひそかに集めて保存していたもの)を検査し、分析した結果、ナポレオンは毒殺を警戒し、セント・ヘレナでは一切薬を飲まなかったというにもかかわらず、彼は死亡前4ヵ月にわたって砒素(ひそ)系の毒物を飲まされていたという推定を発表した。

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【次代への名言】6月18日・ナポレオン 2009.6.18 MSN産経ニュース
 ■「私のいうべきことなすべきことを、突如としてひそかに私に啓示してくれるのは天才ではなく、熟慮であり、瞑想なのだ」(ナポレオン)
 1815年のきょう、ベルギー中部のワーテルロー。午前8時半、対峙(たいじ)する英国やプロシア、オランダなどからなる混成軍を前に、復位したばかりのフランス皇帝、ナポレオンは側近のスルト元帥に断言した。「われわれには9割の勝算がある。戦いはすぐに片付くよ」
 ついにその熟慮も瞑想(めいそう)もおよばぬ時がきた、ということだろうか。勝機はあった。が、仏軍が戦闘の開始を遅らせたためにプロシアの援軍の到着を許したことが致命傷となり、同じ日の午後8時をすぎたころ、仏軍は崩壊した。彼の野望は「百日天下」に終わった。
 6年後、ナポレオンは追放先の孤島で死去する。数ある功績のうち、彼はのちに自分の名が冠され、近代民法のモデルとなった法典をその筆頭にあげた。一方で、人間性に対する疑問の声もある。「私のように戦場で育った男は、100万の人間の生命などほとんど気にかけないものなのだ」。そうオーストリア外相、メッテルニヒに言い放ったという。
 しかし、息子への「遺言」のなかの彼は、人間として偉大である。復讐(ふくしゅう)を戒め、こう結んでいるのだ。「善に対する愛のみが偉大な事どもをなさせるのである」岩波文庫『ナポレオン言行録』)
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090618/acd0906180328001-n1.htm
ナポレオンブログ〜YouTube版〜:ナポレオンブログ〜覚醒した救世主「メシア」〜
http://napoleon-blog.seesaa.net/article/115110117.html