じじぃの「人の死にざま_809_ウィリアム1世(イングランド王)」

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King William I "The Conqueror" (1028-1087) - Pt 1/3 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gItfGVaRnZo
UK History 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Im2u_uuHlko&feature=related
ウィリアム1世(イングランド王) ウィキペディアWikipedia) より
ウィリアム1世(1027年 - 1087年9月9日)は、イングランド王(在位:1066年 - 1087年)。通称は征服王(William the Conqueror)。ノルマンディー公(ギヨーム2世、在位:1035年 - 1087年)でもあった。イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった。
【ノルマンディー公時代】
ノルマン人の支配するノルマンディー地方の君主であるノルマンディー公ロベール1世の庶子として、フランスのファレーズで生まれた。母は北西フランスの皮なめし職人の娘アルレット。出生のため庶子公ギヨームとも呼ばれる。
ノルマン・コンクエスト
1066年1月にエドワード懺悔王が死去すると、ハロルドが名乗りをあげてイングランド王ハロルド2世に即位した。その弟トスティはこれに不満を持ちノルウェー王ハーラル3世を誘って、ヨーク東方のスタンフォード・ブリッジに攻め込んだ。ギヨームもエドワード懺悔王とハロルドとの約束を掲げて9月28日、6000人の騎士を含む12000の兵を率いてイングランド南岸に侵入した。
両面に敵を受けたハロルド2世は、まずトスティとハーラル3世を9月25日のスタンフォード・ブリッジの戦いで討ち取ると、反転して10月14日にヘースティングスでギヨーム軍と戦った(ヘイスティングズの戦い)。騎兵を主力とするノルマン軍ははじめ歩兵中心のイングランド軍に苦戦を強いられたが、敗走すると見せかけて後退し、それを追って敵軍が陣形を崩したのを機に反転して攻勢をかけ、ついにハロルド2世を討ち果たした。ドーバーカンタベリーも落とし、12月にロンドンを降伏させた。
1066年12月25日、ギヨームはウェストミンスター寺院イングランド王ウィリアム1世として戴冠した。こうしてウィリアム1世はフランス王臣下にしてイングランド王の地位を得た。
イングランドの統治】
ウィリアム1世は旧支配勢力のサクソン貴族を駆逐して土地を奪うとノルマン人の家臣に与え、同時に戦時への参戦を約束させ、イングランド封建制度を確立した。
ウィリアム1世のイングランド征服の後、イングランドが外国軍によって征服されることはなく、後の王家は全てウィリアム1世の血統を受け継いだ。またウィリアム1世の宮廷ではノルマンなまりのフランス語が使用されたが、時代と共に現地の言葉と融合し現代に至る英語が形成されていった。

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井沢元彦の英雄の世界史』 井沢元彦/著 廣済堂文庫 2008年発行
ノルマンディ公 ウィリアム1世 (一部抜粋しています)
われわれは今、イギリスを1枚岩の国のように考えているが、実はそうではない。イギリスの国連での席次は「U」に属すが、それは正式名称が、グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国(The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)だからである。つまりイギリスという国は「連合国」なのだ。
その国土は、いくつもの島からなる。一番大きな主島がグレートブリテン、次に大きな島がアイルランド、それに細かな島々が含まれ、いわゆる「イギリス」となっているのだ。
さらにグレート・ブリテンは、行政的には「イングランド」「スコットランド」「ウェールズ」の3地区に分かれる。こうしたイギリスの複雑な成り立ちは、国旗である「ユニオンジャック」にも表れている。ユニオンジャックは、3地区それぞれの守護聖人を象徴する3色の十字を組み合わせたものだからだ。
日本でも人気の高いサッカー選手デビットベッカムは、白地に赤十字の旗を掲げるが、これは彼がイギリスではなく、イングランドの代表であることを表している。
イギリスの主島、グレートブリテン島にもともと住んでいたのは、アングロサクソンという人種で、9世紀頃には彼らによる統一国家イングランド王国」が成立していた。ウィリアム1世とは、11世紀に起きたアングロサクソンによるイングランド王室の王位継承問題に乗じ、イングランドを征服し、ノルマン人による王朝を新たに打ち立てた人物である。
初め彼は、イングランドとは海を隔てた強国、フランスの一地方領主に過ぎず、領有していた土地の名前をとって、「ノルマンディ公」と呼ばれていた。イングランドというのは、第二次世界大戦の際に連合軍の大規模な上陸作戦が行われたことで知られるフランス北西部の地である。
ことの発端は1066年、それまでイングランドを治めていたエドワード懺悔王が跡取りのないまま死亡し、その義弟にあたるウエセックス伯ハロルドが王を称したことに始まる。ノルマンディ公ウィリアムがこれに異を唱え、自らの王位継承権を主張したのだ。
彼の主張にも一応根拠はある。まず第1に、自分が故エドワードの遠縁にあたること、そしてもう1つは、かってハロルドが自分に臣従することを誓っていたことである。
ウィリアムがイングランド侵攻の準備を進めている頃、北海を挟んで向かい合うノルウェーもまたイングランドに領土的野心を燃やし、イングランド北部に侵攻、ヨークという町を占領した。そしてハロルドがこのノルウェー軍を撃退するために北へ移動したところを狙って、ウィリアムはイングランドに侵入し、ヘイスティングに陣を敷いた。
この知らせを聞いたハロルドは、ノルウェー軍を撃退すると急いでヨークからとって返し、ウィリアム軍と対峙した。こうして1066年10月13日、イングランドの領有権を目指したチャンピオンシップが、ヘイスティングの北部において繰り広げられたのである。
当初この戦いは、盾と斧で強力に武装した歩兵による密集戦法を用いたハロルド軍が、槍による一騎打ち戦法を得意とするウィリアム軍を圧倒した。しかし、ウィリアムは自軍が不利と見ると、途中で戦法を転換、わざと敗走したと見せかけて、密集を解いて追撃してきたハロルド軍を待ち伏せし、各個に撃破したのである。
これによりハロルドは混乱のうちに戦死、丸1日の激戦で、ウィリアムは勝利を手にした。
その後南東部地方を制圧したウィリアムは、ロンドンを開城させ、同年のクリスマスにはイングランド王ウィリアム1世として戴冠。これによってアングロサクソン民族の王朝は滅亡し、ノルマン人による新しい王朝が誕生したのである。
この事件は、イギリス中世史最大の事件とされ、「ノルマン・コンクエスト」と称される。
これがどれほど大変なことであったかは、日本に置き換えてみればすぐわかる。たとえれば、朝鮮半島の王が、日本の領有権を主張し、武力で日本を占領したようなものなのだ。
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ウィリアムが生きたのは、日本の歴史でいえば平安時代の末期、人間の戦いの型というものはそれほど大きく変らないものだから、日本と朝鮮も今ではまったく別の国と認知されているが、もしかしたら、記録に残っていないだけで、両国の間にもノルマンとアングロサクソンと同じような争いが繰り広げられていたのかもしれない。

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