じじぃの「人の死にざま_105_ヒトラー」

Adolf Hitler 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yf6_zKLbykQ
『目からウロコの世界史』 島崎晋 著  PHP文庫 2006年発行
なぜ、大衆はヒトラーの演説に酔ったのか (一部抜粋しています)
ヒトラーは反共・反ユダヤ・ドイツ民族至上主義を掲げるドイツ労働者党に入党するや宣伝係長のポストにつくが、類まれな弁舌の才が功を奏して、演説会はつねに盛況。入場料をとるようになっても聴衆は減るどころか増える一方だった。党員が急速に増加したばかりか資金も潤沢になり、ヒトラーの党内での地位は高まっていく。ドイツ労働党1920年に「民族(国家)社会主義ドイツ労働党NSDAPナチス)と改称。党のシンボルとして鉤(かぎ)十字が採用される。21年の党大会ではついにヒトラーが党首に選ばれる。ヒトラーはすぐ追撃隊(SA)を結成させ、それを宣伝・示威(じい)・暴力活動の実行部隊とした。
1923年、ヒトラームッソリーニにならい「ベルリン進軍」をおこなってワイマール政府を打倒する計画をたて、ミュンヘン武装蜂起を企てるがあえなく鎮圧される。(ミュンヘン一揆)。禁固刑を受けたかれは獄中で『わが闘争』を執筆。このなかでかれは、ユダヤ人排斥とドイツ民族の生存権樹立という2つの基本目標を設定している。それを正当化するため、歴史を人種間の生存をめぐる闘争と強者による弱者の征服の過程とみなす社会ダーウィニズム的な征服観を利用していた。本書は33年1月のヒトラー政権成立までに、ドイツ国内でほぼ28万部が刊行された。
ヒトラー1924年に釈放されるとナチスの再建にとりかかる。選挙活動に力を入れ、従来のバイエルンの範囲を越えてドイツ全土に党勢を拡大させていった。32年にはナチスが第1党に躍り出て、翌年1月にはヒトラーが首相の座につき、ナチス独裁の道が開ける。
ナチスがかくも短期間に躍進できたのはなぜか。社会・経済の危機はもちろんだが、それにくわえて情報宣伝を担当するゲッペルス(1897〜1945年)の巧みな選挙演出に負うところが大きかった。「街頭を制する者が大衆を制し、大衆を制する者が国家を制する」をモットーに、SAによる仰々しい示威行進や左派政党との乱闘など力に訴える活動もあったが、何よりもゲッペルスの手段は近代技術を駆使することでいかんなく発揮された。飛行機、蓄音機、トーキー映画の活用などそれまでの常識を覆す選挙戦術が展開され、集会には自転車競走やサーカス、オペラといったイベントも付随していた。ヒトラーが演説する際には、そのカリスマ性を強調するために宗教儀式まがいの綿密に練られた演出もおこなわれた。
大衆はヒトラーの熱弁に酔い痴れた。かれの公約はどの階級からも歓迎されるものだった。資本家には反共を、軍には再軍備を、零細な商人には大商店の抑制を、農民には保護関税を約束。労働者には仕事と正当な報酬を、中産階級には安定への希望と自尊心を、学生には理想主義的な展望を示した。すべての者に何かしら提供するという八方美人的な約束を乱発したのだった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
ヒトラー (1889-1945) 56歳で死亡。
1945年4月27日、ベルリンはソ連軍に完全包囲された。
28日、遠雷のような市街戦の音がひびいて来る総統官邸地下壕で、ヒトラーは愛人エヴァ・ブラウンと結婚式をあげた。そして、部下のゲッペルスとボルマンにいった。
「妻と私は降伏の恥辱を避けるために死を選ぶ」
29日、彼は盟友ムソリーニがパルチザンにつかまり、処刑され、逆さ吊りになったというニュースを聞いた。
4月30日、ヒトラーは昼食に軽いソースをかけたスパゲティをとった。
午後3時30分、ヒトラーはワルサー拳銃をとって自室にはいっていった。そこには、その直前毒をのんだ「妻」のエヴァ・ブラウンが、すでに長椅子の肘によりかかるようにして、横になって死んでいた。
ヒトラーはテーブルに向かった椅子に座り、銃口を口にあててひきがねをひいた。身体は前のめりになり、そのときテーブルの花瓶が倒れて、飛び散った水がエヴァの屍体をぬらした。
側近のオットー・ギュンシュ大佐はいう。
「ボルマンが真っ先にはいってゆきました。それから、私は執事のリンゲのあとからはいりました。ヒトラーは椅子に座っていました。エヴァは寝椅子に横たわっていました。彼女は靴をぬぎ、それを寝椅子の端にキチンと揃えていました。ヒトラーの顔は血で覆われていました。エヴァは白い襟と袖口のついた青いドレスを着ていました。彼女の眼は大きく見ひらかれていました。青酸物の強い匂いがしました」
しばらくして、2人の屍体は毛布につつまれ、掩蔽壕(えんぺいごう)の入口の前の窪地に置かれ、自動車からぬきとったガソリンがそそがれた。この間にもソ連軍の砲弾はあちこち落下して、処理人たちは何度も避難しなければならなかった。しかし2つの屍体に火はつけられた。
ベルリンの大火の前ではくらべものにならないほど小さな炎でしかなかったが、何物にも劣らないほど恐ろしい眺めであった。ヒトラーの運転手ケンプはいう。「それはベーコンの焼けているような匂いでした」
東条英機がいなくても太平洋戦争は起こったろう。しかしヒトラーという存在がなかったら、太平洋戦争は起らなかったにちがいない。これほど全日本人の運命に−−子々孫々にわたって−−激甚な影響を与えた異国人はほかにない。いや日本人にもいない。