じじぃの「人の死にざま_100_豊臣・秀吉」

豊臣秀吉 - あのひと検索 SPYSEE
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豊臣秀吉 ウィキペディアWikipedia) より
豐臣秀吉/ 羽柴秀吉は、戦国時代(室町時代後期)から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名尾張国出身。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改める。
【概要】
尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれ、織田信長に仕え、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継の地位を得る。その後、大坂城を築き関白・太政大臣に任ぜられた。豊臣姓を賜り、日本全国の大名を従え天下統一を成し遂げた。太閤検地や刀狩などの政策を採るが、慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康五大老に託して没した。
墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、石垣山一夜城など機知に富んだ逸話が伝わり、百姓から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

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『戦国武将の死生観』 篠田達明 新潮選書 (一部抜粋しています)
晩年の秀吉は前半生とは別人のように心身衰弱して政権運営も失速した。天正20(1592)年には明国を討とうと朝鮮出兵を計画した。全国の諸大名を肥前名護屋佐賀県北部)に集め、みずから朝鮮へ渡るつもりでいた。
そのプランたるや、明国を征服したあかつきには後陽成天皇の御座所を北京に移し、明国の関白職に豊臣秀次を就任させる。日本国の帝位は皇子の良仁天皇、あるいは皇弟の智仁天皇に継がせる。関白には宇喜多秀家を当てる。家臣への新たな領地として日本・中国・朝鮮にまたがる3ヵ国支配の地図をつくり、天竺(インド)まで領土を広げようという空想的な侵略構想である。大局的判断をまったく欠いており、誇大妄想におちいったか、あるいは認知症(老人性痴呆)からくる妄想にふけっていたとしか思えない。
日本軍は朝鮮の義勇組織によって打ち砕かれ、明援軍が到着すると補給路を断たれた。明との和議交渉に際し秀吉は、朝鮮の南半分を日本の領土として割譲し、勘合貿易を復活して明国皇女を天皇の后(きさき)にせよと要求した。このばかげた交渉はもちろん決裂した。怒った秀吉は慶長2(1597)年、再度朝鮮へ出兵する。戦局が膠着してくると主戦派の加藤清正らと和平派の小西行長らとの間に対立が生じ、政権内部は動揺した。
翌春、秀吉は醍醐寺三宝院で世にも高価な花見を催した。だが、このころ体調はすこぶる悪く、立っているのがやっとだった。
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死期が迫った秀吉は、幼い秀頼を守ることしか頭になかった。秀吉は5大老、5奉行を定めたが、これは政権の体制強化というより秀頼の後見と保護を主眼とする人事だった。7月15日には諸大名に対して当時6歳の秀頼へ忠誠を誓う旨を記した誓紙を提出させた。月がかわると秀吉もついに冥土ゆきを覚悟して家康ら5大老に宛てて遺言状をしたためた。そこには「秀頼が成りたちますように、この書付に書いた方々、よろしくお頼みします。なにごとも、ことのほかには思いのこすこともありませぬ」と息子の前途のみを案ずる文が綴られ、「くれぐれも秀頼のこと、お頼みします。5人の方々、お頼み申し上げます。くわしいことは、5人の奉行どもに申しわたしました。名ごりおしいことです」とくどいほど念をおしている。
8月15日には家康を伏見城に呼び寄せ、「天下のことは内府(家康)どのに、秀頼の養育は加賀候(前田利家)に」と重ねて頼んでいる。綿々と訴えるさまは、農民出身で信長や家康のように有力な家臣団をもたなかった秀吉の悲哀が感じられる。その3日後の8月18日午前4時、秀吉はぽっかりと口をあけたまま息をひきとった。享年62。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
豊臣秀吉 (1536-1598) 62歳で死亡 (一部抜粋しています)
秀吉は文禄4年ごろから咳気(がいき)をわずらい、神経痛の気味もあり、その秋には小便の垂れ流しなどやることがあった。そのころ彼は60歳にもなっていないから、その肉体の老廃ぶりがわかる。
本格的に発病したのは、慶長3年5月5日、端午(たんご)の節句の祝宴のあとであった。
『日本西教史』によれば、「太閤は一種の莉病(りびょう)にかかり、諸医官もはじめは軽症として深く心を労しなかったが、6月下旬からようやく病加わり、8月5日に至ってほとんど2時間気絶して人事不省の状態におちいり、諸人はじめて大いに驚き、心痛した」とある。
これは太陽暦だから、8月5日は日本の歴では7月2日にあたる。
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8月はじめ、伴天連(バテレン)ロドリゲは秀吉を見舞った。
「太閤は絹枕をかさね、これによりかかって病床にあった。その衰弱枯痩(こそう)の姿は、ほとんど人間ではなかった。ロドリゲ師は天国と地獄について説きはじめたが、太閤はごうもよろこばず、まったく顧(かえりみ)るところがなかった。
8月9日、家康らは秀吉から、朝鮮撤兵の許可を得た。
その直後から秀吉は悩乱状態におちいり、5大老らは、「以後秀吉が何をいおうと一切無視黙殺すること」という申し合せをした。
このころ秀吉は、信長の亡霊に襲われ、信長の亡霊は、おれの子たちを無残な目にあわせおった藤吉郎め、早く地獄へ来い、といったらしく、秀吉がそれについて許しを乞い、まるでひきずり出されるように夜具から這い出すのを目撃した、という前田利家の話がある。
8月18日――陽暦9月15日――午前2時、彼は死んだ。
辞世「露と落ち露と消えぬるわが身かな浪花のことは夢のまた夢」
これはおそらく他人の代作であろう。秀吉には、これだけの歌も作れそうもない。またこんな歌を作れる心理状態ではなかった。彼は生きながら地獄に堕ちていたのだ。

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次回の知ってるつもり?!
2002/01/13 放送 「豊臣秀吉
http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/020113.html
【次代への名言】7月5日・豊臣秀吉 2009.7.5 MSN産経ニュース
 ■「はやしろ(城)しろ百ばかりとり申(もうし)候 いよいよめでたきさう申(もうす)べくてんか」豊臣秀吉
 旧暦で1590(天正18)年6月ごろの秀吉の手紙である。あて先は留守をあずかる正室の北(きたの)政所(まんどころ)(おね)。「てんか(天下)」とは、関白時代(85〜91年)に用いた署名である。秀吉は数十万の軍勢を率い、関東の雄、北条氏直が立てこもる小田原城を包囲していた。
 同じ年のきょう、氏直が降伏の意を伝えた。織田信長に仕えたのは三十数年前で応仁の乱からは120年。この瞬間、秀吉は名実ともに天下の主となった。
 きら星のごとくある秀吉論に敬意を表しつつ、私論を少々。歴史学者会田雄次は、信長の部下としての秀吉を「仕事に一心であるよりも、主人に一心。日本人を支えている仕事観はこれだ」と評した。しかし、秀吉はもみ手し、風向きをよんでばかりいたわけではない。『信長公記』などによると、大先輩の柴田勝家と仲違いし、職場(戦場)放棄したことを含めて彼は2度、軍紀に背いている。
 主・信長の性格を考えれば「致命的」のはずだが、そうはならなかった。
 当の信長が秀吉という人材を惜しみ、秀吉の方も秘めた反骨心ゆえの失敗を挽回(ばんかい)するため、旧倍の粉骨砕身で報いたのだろう。そんな辛苦の積み重ねが、彼を天下人にしたのだ、と思う。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090705/acd0907050346001-n1.htm