じじぃの「人の死にざま_99_萩原・朔」

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萩原朔太郎 提供: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)は、大正・昭和期の詩人、作家。
【生涯】
群馬県群馬郡北曲輪町(現:前橋市千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれる。
1942年に急性肺炎で死去。享年56。
詩の他には、比留間賢八にマンドリンを習いマンドリン倶楽部を作るなど音楽も志し、手品も楽しむというハイカラな面も持ち合わせていた。また、大のミステリーファンとして知られており、実作こそしなかったものの、江戸川乱歩の著した「パノラマ島奇譚」に対し、いち早く激賞の評論を書いたのは有名な話である。
また、作曲もいくつか試みており、室生犀星の詩による合唱曲『野火』、マンドリン曲"A Weaving Girl"(機織る乙女)などが残されている。

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『追悼の達人』嵐山光三郎著新潮社
萩原朔太郎
死んだきみの腹はへらない (一部抜粋しています)
萩原朔太郎昭和17年5月11日に死んだ。55歳であった。この年の5月29日には与謝野晶子が、11月2日には北原白秋が死んだ。昭和17年は、時代を代表する詩人・歌人をあいついで失った年であった。前年12月、日本は真珠湾攻撃をしかけ、太平洋戦争に突入していた。
晩年の朔太郎は西欧志向から「日本への回帰」を標榜していた。朔太郎はこのころ日本浪漫派に属しており、朝日新聞に依頼されて「南京陥落の日に」をすでに書いていた。もう少し生きていたら戦争讃美歌を書き、戦争責任を問われる結果となったかもしれない。
雑誌「文藝世紀」の追悼号で、保田興重郎は、朔太郎は「ここ10年は、つねに日本的な詩想樹立の先頭として活躍せられた」とたたえた。「日本の歴史は今や世界史である」と前置きして、「(朔太郎は)大東亜戦争の初めに死なれたのである。重大な時にここに重大な指導者を失ったのである」と書いている。
「南京陥落の日に」は唯一の戦争協力詩であり、朔太郎は、これを朝日新聞学芸部記者津村秀夫に、「電話で強制的にたのまれて書いたが、西条八十の仲間になったようで懺悔(ざんかい)の至りに堪えない」と丸山薫への手紙に書き送っている。頼まれればすぐ書く流行作詞家の西条八十とは違うという気概があった。
朔太郎の詩壇デビューは遅く、第一詩集『月に吠える』が刊行されたのは31歳である。年々、詩壇での評価は高まっていったが、詩作で生活できるわけもなく、生涯貧乏であった。生活費は医院である実家に頼り、新宿のバーに出かけては酒を痛飲し、詩で認められなければ生活無能力者である。論敵も多かった。
そのことを伊藤静雄は「どんなに多くの論敵が誇らしげな知識で以て先生に立ち向かったであろう。先生はそれら無益と思われる相手に対しても堂々と正論を以て説かれた。それはつねに昂然たる詩の原理であった」と回想している。
草野心平は「千人が束になっても間にあわないそんな顔がこの世から消えてしまった」とし、「すすぼけて峻厳(しゅんげん)でトゲトゲしくて、愛や猜疑や嫉妬や不安や敵がいや、こらえられないほどのさびしさの歯の食いしばりが頬っぺたに表われ、ぷんぷんと怒りっぽい、良知の筋の高まっている、涙線の太い、ふるえるような、いつも遠くをさすらっている、なんともかなしいあの美しい顔が」と追憶した。
堀口大学は文芸汎論詩集賞の選考会の記憶を回想している。選考会場には、堀口はじめ他の選考委員はみな集まっているのに朔太郎だけがいなかった。「萩原君は?」と聞くと係の者が「今夜はみえません。昨晩おいでになりました」と言って一枚の半紙を差し出した。半紙には太い鉛筆の走り書きで、神経質に「雪のなかを出かけて来てみたが、会合は明晩だと判った。もう一度出直すのは嫌だから、これこれの詩集を推薦して帰る」と記してあった。堀口は、「あの晩、ぼくは萩原君のあの手紙を読んで、彼の詩の奥にひそむあの悲痛な声を聴くような気がして目がしらを熱くした。それは萩原君の魂が生き難い現世をかこちまどうて発するS・O・Sのサインであった」と追悼している。
朔太郎のもとへ芥川龍之介が訪問したことがあった。朝早く、芥川は萩原家の家人の案内も待たず、2階の書斎へかけのぼってきて、挨拶もせず、朔太郎の『郷土望景詩』に悲痛の感動がわきおこり、顔も洗わずに寝間着姿で飛んできたと言った。芥川はそれほどまでに朔太郎を崇拝していた。
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犀星は第二次詩誌「四季」で朔太郎追悼号を出した。この特集号は、犀星渾身の力業で、かなり多くの詩人、歌人に追悼原稿を依頼している。
隠居した長老の蒲原有明は、「萩原君の長逝は詩壇のためまことに痛惜に耐えません」と書きつつも、「殆んど全く文界を遠ざかり、記憶力減退、回想を書くことは殊に困難になりました」と弁明をしている。それでもどうにか、二首の追悼短歌を書いてもらった。犀星には詩壇の大御所をずらりと並べて、朔太郎の花道を作ろうとする気合いが見られる。「四季」の表紙には「供物」と題した誌が、ひかえめに印刷されている。
「はらがへる/死んだきみのはらがへる/いくら供えても/一向供物はへらない。/酒をぶっかけても/きみはおこらない。/きょうも僕のはらはへる。/だが、きみのはらはへらない。」
誌の終りに室生犀星と署名してある。この表紙を見ただけで、追悼号を読む者は朔太郎の闇夜にひきずりこまれる。犀星は編集もまた達人であった。最終ページには、編集にあたった二人の「編集後記」が三段組で小さくのっている。「未定稿『洋燈の下で』ほかの詩作の年代はまだよくわからぬが、いずれ調査のうえ書く」という編集者としての文で(犀星記)とある。もう一人(掘記)となっているのは堀辰雄の文である。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
萩原朔太郎 (1886-1942) 56歳で死亡。 (一部抜粋しています)
『月に吠える』『青猫』など、日本の詩壇に不滅の詩集を出しながら、萩原朔太郎は40歳になるまで、妻子をかかえて、上州前橋の開業医たる父の家に居候をしていた。
「われはもと無用の人
 これはもと無用の書
 一銭にて人に売るべし」
勤勉な生活人である父は、この不肖の息子に一生嘆息し、故郷の人々はこの不出来な坊ちゃんをかげで笑った。
大正14年、彼はようやく上京したものの、暮らしはもとより困窮をきわめ、妻は若い男と駆け落ちし、その生活がからくも安定したのは50歳近くになってからであった。
昭和9年、48歳で明治大学文科の講師という職も得た。彼が晩年奇術を愛したというのも一種の安定の現われであった。
萩原葉子は記す。
昭和15年ころから、父は痔がひどくなり、そのためか夜など同じ電車に乗り合わせたりするとき、座席の向こうに意外に老いた父を見て、ことばもかけられないほど寂しく思うことがあった」
彼は家族にかくして床屋で髪を染め、また老眼鏡もかくして使った。
昭和16年秋ごらから身体不調となり、好きな酒も飲めなくなった。16年早々、気分をひきたてるためにいった伊香保温泉から風邪をひいて帰って以来、その風邪がこじれて病床から離れられなくなった。
しかも太平洋戦争は進行し、、小食の彼が栄養もとれないほど食料は手にはいらなかった。
「5月に入ると、急に7月のような異常な暑さがやって来て、呼吸(いき)苦しく蒸し暑い日が続いた。暑さに弱い父は急激に弱り、2階から階下の座敷を寝室に移した時には、1人でお手洗いに立つのがやっとのほど、両の足はまるで枯木のようになっていた」
と、当時22歳の葉子は書く。
5月10日の朝から急激に熱を出し、呼ばれた医者は急性肺炎だといった。しかし適当な薬も注射薬もなく、ただ酸素吸入器だけが療法であった。
「目を覚ますと声にならない声で父は苦しそうに顔をしかめて、便意を告げた。
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昭和17年5月11日、数え年で57歳だった」(萩原葉子『父・萩原朔太郎』)
正確には午前3時40分であった。
「わが草木とならん日に
 たれかは知らん敗亡の
 歴史を墓に刻むべき。
 われは飢えたりとこしえに
 過失を人も許せし
 過失を父も許せし」
彼は自分の一生を「敗亡の歴史」と思っていた。
しかし、同じころ、みずからは有用有能と信じる一大集団であった帝国海軍の将官や参謀たちは、やがて日本に運命の敗亡を呼ぶミッドウェー作戦を準備しつつあった。
朔太郎の書斎の鍵のかかった引き出しという引き出しは、ぜんぶ手品の小道具で満たされており、机の上に、「手をふれるばからず」と書いた分厚い紙が重ねられてあったが、それは詩稿ではなくて、「手品のタネ明かし」であった。

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【次代への名言】11月1日・萩原朔太郎 2008.11.1 MSN産経ニュース
「人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである」萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)『月に吠(ほ)える』序)
 田舎のさびしい日向に立つて、
 おまへはなにを視てゐるのか、
 ふるへる、わたしの孤独のたましひよ。
 このほこりつぽい風景の顔に、
 うすく涙がながれてゐる
 詩人、萩原朔太郎は明治19(1886)年のきょう、群馬・前橋の医家に生まれている。右は彼の初詩集『月に吠える』から、『孤独』の後半部である。
 「おまへ」とは直接的には、省略した前半部にある「つかれた馬のこころ」、それは朔太郎(わたし)、いや、人間の孤独の象徴−などという解説は蛇足(だそく)かもしれない。評論家、伊藤整はこの詩集を「詩を意味の説明や韻律から解放し、感覚がそのまま人間を描いている」と読む。
 「詩はいつも時流の先導に立つて、来(きた)るべき世紀の感情を最も鋭敏に触知(しょくち)する」とも朔太郎はいう。大正12(1923)年、そう「序」に記した第2詩集『青猫』には、数々の不安と向き合うことになる後世への、こんな一節がみえる。
 なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません
 ただ遠方をみつめなさい
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081101/acd0811010334000-n1.htm
萩原朔太郎 Google 検索
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