じじぃの「人の死にざま_522_三好・達」

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春の岬: 今この時&あの日あの時
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三好達治 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
三好達治大阪府大阪市出身の詩人。東京帝国大学文学部仏文科卒。
【略歴】
大阪市西区西横堀町に生まれて父政吉・母タツの長男である。
大正11年第三高等学校文科丙類に入学。三高時代はニーチェツルゲーネフを耽読し、丸山薫の影響で詩作を始める。大学在学中に梶井基次郎らとともに同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と詩論』創刊に携わる。シャルル・ボードレール散文詩集『巴里の憂鬱』の全訳を手がけた後、処女詩集『測量船』を刊行。叙情的な作風で人気を博す。
十数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、随筆集『路傍の花』『月の十日』などがある。また中国文学者吉川幸次郎との共著『新唐詩選』(岩波新書青版)は半世紀を越え、絶えず重版されている。 
若いころから朔太郎の妹アイに憧れ、求婚するが、彼女の両親の反対にあい、断念。が、アイが夫佐藤惣之助に先立たれると妻智恵子(佐藤春夫の姪)と離婚し、アイを妻とし、三国で暮らす。しかし、すぐに離婚する。これを題材にして書かれたのが萩原葉子(朔太郎の娘)による『天上の花』(現在は講談社文芸文庫)である。
1953年に芸術院賞(『駱駝の瘤にまたがつて』)、1963年に読売文学賞を受賞(『定本三好達治全詩集』 筑摩書房)。翌年、心臓発作で急死。没後ほどなく、『三好達治全集』(全12巻、筑摩書房)の刊行が開始された。【詩集】
・『測量船』(第一書房、1930年)のち講談社文芸文庫
・『南窗集』(椎の木社、1932年)
・『霾』(合本詩集『春の岬』(創元社、1939年)所収)
・『駱駝の瘤にまたがつて』(創元社、1952年)

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「鴎(かもめ)」 三好達治/詩
ついに自由は彼らのものだ
彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所とする
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だ
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だ
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
一つの星をすみかとし
一つの言葉でことたりる
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
朝やけを朝の歌とし
夕やけを夕べの歌とす
ついに自由は彼らのものだ

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
三好達治 (1900-1964) 64歳で死亡 (一部抜粋しています)
「この、酒で死んだといってもいいような詩人の場合にも、その酒がうまいから飲むのではなかった。うまいと思って飲んだことはない、とも言っていた」
と、友人の俳人石原八束は語る。
三好達治は低血圧症と狭心症の持病があって酒がはいると元気になれ、かつ安らかに眠りにつけるからであった。
昭和39年4月3日午後3時ごろ、三好は外出先から帰ると不快を訴えて書斎にひきこまったが、夕方、紅茶にウイスキーをいれて飲み、倒れた。医者が呼ばれて手当てをした結果、夜中の1時ごろには平静に戻った。
翌日も、目覚めたときも気分はよさそうであったが、9時ごろになって、突如また強度の狭心症発作を起し、午後病院へ運ばれた。途中パトカーに逢い、パトカーに先導してもらって、田園調布中央病院へ急送された。
車の中で、蒲団にくるまれたままぐったりした三好は、病院で酸素吸入その他の手当を受けて意識を取り戻すと、苦痛のため高い声をあげ、あらあらしく手足を動かしはじめた。
以下は石原八束の記録による。
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「12時、詩人はこんこんと眠る。顔その他の血色もよくなる。30分に1度くらい鼓動が止まる。詩人の鼓動に無意識にあわせているこちらの鼓動までがぎくりとして、ベッドに近より息のふき返すのを待つ。そのことの繰り返しが1時半ごろまで続く」
「やがて東の窓を紫に染めて夜が明けて来た。その紫色の窓ガラスに写った詩人の顔は、次第に死色を濃くしつつ、外の明るさの中に消えていった。消えた窓の向こうに、満開の桜の花が浮かびあがるようにあざやかに咲き盛っていた」
死亡は4月5日午前8時であった。
「春の岬旅のをわりの鴎(かもめ)どり
 浮きつつ遠くなりにけるかも」

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三好達治 Google 検索
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