じじぃの「人の死にざま_420_高村・光」

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智恵子抄 コロムビアローズⅡ 動画 YouTube
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高村光太郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
高村光太郎は、日本の彫刻家、評論家、詩人。東京府下谷区(現・東京都台東区)出身。本名は光太郎と書いて「みつたろう」。
本職は彫刻家・画家と言えるが、『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため、詩人として認識されることも多い。評論や随筆、短歌の著作もある。
弟は鋳金家の高村豊周。甥は写真家の高村規。
【経歴】
彫刻家の高村光雲の三兄弟の長男。東京美術学校(現・東京藝術大学)彫刻科に入学。文学にも関心を寄せ、在学中に与謝野鉄幹の新詩社の同人となり『明星』に寄稿。1902年彫刻科を卒業し研究科に進むが1905年に西洋画科に移った。1906年より留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年に帰国。旧態依然とした日本の美術界に不満を持ち、ことごとに父に反抗し、東京美術学校の教職も断った。パンの会に参加し、『スバル』などに美術批評を寄せた。「緑色の太陽」(1910年)は芸術の自由を宣言した評論である。
1912年駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第一回ヒュウザン会展に油絵を出品。 1914年に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。 1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。
智恵子の死後、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。 1945年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。
1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。第2回読売文学賞を受賞。1952年、青森県より十和田湖畔の記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京中野区のアトリエに転居し、記念碑の塑像(裸婦像)を制作。この像は翌年完成した。
1956年4月2日午前3時40分に東京都中野区桃園町にある自宅アトリエにて肺結核のため死去。この高村の命日(4月2日)は連翹忌と呼ばれている。

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『道程』 高村光太郎
 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る
 ああ、自然よ
 父よ
 僕を一人立ちさせた広大な父よ
 僕から目を離さないで守る事をせよ
 常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
 この遠い道程のため
 この遠い道程のため

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
高村光太郎 (1883-1956) 73歳で死亡。 (一部抜粋しています)
高村光太郎は若いときからときどき少量ながら喀血したことがあり、かつ昭和20年5月、62歳にして空襲で東京のアトリエを焼かれ、岩手県花巻に疎開した直後に急性肺炎をわずらったときにも、医師の診断では胸部に痼疾(こしつ)のあることが認められたという。
しかし生来の強靭な肉体はこれを克服したかに見えたが、敗戦直後の10月から、戦時中の数々の戦争詩のためにみずからを岩手の山中に「自己流謫(るたく)」した後、極寒と吹雪の中の孤独な足かけ8年の生活は、徐々に彼の健康をむしばんだ。
「今日も愚直な雪がふり
 小屋はつんぼのやうに黙りこむ。
 小屋にゐるのは一つの典型、
 一つの愚劣の典型だ」                          (『典型』)
昭和22年1月に、喀痰中に血痕を発見し、以来何度か血痰を見るようになったが、自分では肺の毛細管が破れやすい体質なので、決して結核ではないと思いこんでいた。
昭和27年、彼は、十和田湖畔の記念碑としての彫像制作にために、8年ぶりに東京に帰り、中野区桃園町の故中西利男画伯のアトリエを借りた。時に69歳であった。
彼はその制作の後、ふたたび山に戻るつもりであったが、28年その彫刻が完成したとき、すでに結核の症候ははっきりと現れていた、
しかし彼は容易に入院しようとはしなかった。主治医と相談の結果、いかにすれば仕事が沢山かつ長くできるか、ということを主眼として、治療はただ悪化しない程度にとどめることとし、彼はアトリエにベッドを置いてそこに横たわった。
晩年弟子として出入りした奥平秀雄は、昭和29年当時の光太郎について記している。
「私は光太郎の枕辺で独りビールを酌(つ)ぎ、光太郎の顔を見ながら独りで飲んだ。7月の夕暮れ、このアトリエの蛍光灯の光はなにか夕べのひとときをしんみりと静かに横たわっている光太郎とただ2人で向かい合っているのは、実に名状しがたい光景であった」
30年を迎え、光太郎の身体はやや恢復したように見えたが、4月にはいってまた喀血し、ついに赤坂の山王病院に入院した。入院前彼は、「まったく人間の生涯は苦しみの連続だ。死でやっと、解放され、これで楽になるという感じがする」といった。
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31年1月になって、光太郎の衰弱は目に見えていちじるしくなった。結核のために肋膜の癒着が起り、呼吸連動が制限され、気管支の狭窄(きょうさく)を起し、ために胸痛と息切れがひどくなった。
そのころ光太郎は、昭和9年82歳で死んだ父の光雲について、「父は内的なものを持たない人だった。だから父は空虚な生き方しか出来なかった」といった。それは父をなつかしみ、憐れむ思いのこもった語調であったが、しかし評語そのものは、辛辣きわまる標語であった。彼は以前から父の彫刻を買っていなかった。光雲の作った二重橋楠公像は五月人形で、上野公園の西郷像は置物だといっていた。
・・・・しかし、楠公像と西郷像は、そんな批評眼を度外視した民衆の敬愛の眼につつまれていまも厳然と立ち、光太郎の精魂こめた十和田湖の乙女の像は、いまだに民衆からはあまり好評をもって見られていないのである。最後まで詩人よりも「彫刻家」であることを誇りとした高村光太郎の悲劇であった。
そのころ、光太郎は奥平にいった。「きみはぼくがこうして独りでいるのが淋しいとでも思ってやって来るのかね。もしそうなら来てくれなくてもいいんだよ。ほくは独りでいても、ちっとも淋しいことなんかないのだ」それから、またいった。「ぼくには智恵子がやってくる、ぼくは智恵子とふたりでいつも話しあっている。だからぼくは淋しいなんてことはちっともないのだ」
死の近づいた光太郎の魂には、18年前に死んだ狂妻智恵子がまだ生きていたのだ。
2月ごろ、彼は弟の彫刻家豊周に、ことしは木彫をやるつもりだ、といい、こころもち唇をまげて微笑を浮べながら、
「気持ちが美しいと木彫が出来る。腹が立つと詩が出来る」
と、独り言のようにつぶやいた。
3月19日の夕方、喀血して、病勢にわかに改まった。24日の午後、奥平が見舞うと、アトリエのベッドに横たわっていた光太郎は、看護婦に足をさすってもらいながら、
「ぼくの心臓は強いんだそうだ。弱いんだと、3、4分で楽になれるんだがなあ」
と、低い声でいった。
4月1日、ふたたび大喀血が起り、2日の午前3時40分、窓の外に季節はずれの雪のはげしく降る中で、ついに光太郎は息をひきとった。

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