じじぃの「人の死にざま_61_堀・辰雄」

堀辰雄 - あのひと検索 SPYSEE
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『追悼の達人』 嵐山光三郎著 新潮社
堀辰雄
逞しき病人 (一部抜粋しています)
辰雄は小説の舞台を軽井沢へ移し、この地で自ら選んだ友人のみとつきあった。新興芸術派とは川端康成横光利一以外とはつきあわなかった。新興芸術派とはプロレタリア文学に対抗して芸術の擁護を主張した、中村武羅夫を中心にする文学グループだった。派の命名尾崎士郎であった。
辰雄の小説は、コクトーやラディゲ、メリメ、スタンダール、など近代フランス文学を下敷きにして作り上げたもので、晩年は王朝物にこって「更科日記」「竹取物語」「蜻蛉日記」を読んでノートをとった。借物の匂いのする作品が多く、人間探求派の作家からは反感を買った。そのひとりは大岡昇平である。大岡は伊藤整山本健吉との座談会「堀辰雄文学をせつ断する」(「文芸」堀辰雄読本・昭和32年)で、堀辰雄の小説は小説は「猿真似だ」とはっきり言っている。伊藤整も、(辰雄は)「先輩たちに可愛がられる育ちのいい坊やだった」と痛いところをついた。大岡は、「堀の小説にでてくるような生活はどこにもないんだ。このスノビズムは大正末期の新感覚派からきている。横光、川端、片岡十一谷、当時だれもしていなかった生活を空想した。岸田国士の芝居のしゃれたセリフは、日本中どこでも行われないものなんだ」と怒ってみせた。「あいつは貴族だったんだ。新興芸術派とはつきあわないのは無理はない。そういうことはキチンと心得て、抜け目のないやつだよ・・・・一種の策士のタイプだ、文学的策士だ」。大岡ははさらに言う。「堀がステッキをついて軽井沢の横町を歩いているのは、写真にしちゃ面白いかもしれないけど、別荘人種はせせら笑っているさ・・・・みんな私小説のウソなんだ」。
大岡のは反感に満ちた言葉は悪罵に近いが、大岡と同じ思いを抱いている作家はかなり多くいて、はっきりと言えなかっただけだ。東京の町にも辰雄を真似して気どってベレー帽をかぶる若手詩人がふえ、顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。辰雄はフランス文学からの応用がうまく、たとえば『聖家族』の巻頭の「死があたかも一つの季節を開いたかのようだった」はラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』からのイメージだ。でありながら辰雄が「死」を書けば、それは辰雄じしんの死につながり、読者は私小説だと信じる。『聖家族』のモデルは芥川と人妻片山広子こと松村みね子であり、軽井沢に行った辰雄は、芥川の晩年の恋を目撃した。風立ちぬは、婚約者矢野綾子の死という現実の悲しみを扱いながら、内容はリルケヴァレリーからの応用だった。
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命の終りが近い人は、「自分はいま生きている」という事実に敏感になる。辰雄の目には、病人の特権的な感性があり、現実は極端に虚構化されていった。命が短いことを知れば、やりたいことだけをやる。好きな友しか会わない。辰雄は死ぬ3年前から医者に見はなされていた。最後の3年間は、外部からの騒音をいやがった。笑い声をたてられるのも嫌いで、多恵子夫人は、おかしさを我慢できないときはコタツのなかへ顔をつっこんで笑った、という。多恵子夫人は辰雄の最後をつぎのように回想している。
「喀血というのは直前までわからないものですが、主人は永年の経験で、喀血しそうな気がすると、耳を当ててごらん、と云います。胸がポコンポコン鳴っていると、大急ぎで洗面器やら含嗽(うがい)水やらチリガミやら七ッ道具をそろえ、女中にも待機させます。・・・・それで30分くらい経って何事もなければもう大丈夫なのです。そんなとき私はとてもうれしくなってしまいます。そして、よかったわね、と云わずにはいられません。主人もまた喀血には慣れているので、決してあわてずに、うまく対処するのでした。・・・・今年に入ってからは血痰がとまらず、たびたび、小さな喀血をしておりましたが、5月27日の夜の、「また出そうだ」が最後の言葉になってしまいました」(『堀辰雄看病気』)
虚構の私小説を書こうという強靭な意志が48歳まで堀辰雄を生かしたのであり、そのはてのあっさりした死も、また一編の物語となった。

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風立ちぬ 堀辰雄 原文です。 (一部抜粋しています)
Le vent se lve, il faut tenter de vivre.
              PAUL VALRY
 序曲
 それらの夏の日々、一面に薄(すすき)の生い茂った草原の中で、お前が立ったまま熱心に絵を描いていると、私はいつもその傍らの一本の白樺の木蔭に身を横たえていたものだった。そうして夕方になって、お前が仕事をすませて私のそばに来ると、それからしばらく私達は肩に手をかけ合ったまま、遥か彼方の、縁だけ茜色(あかねいろ)を帯びた入道雲のむくむくした塊りに覆われている地平線の方を眺めやっていたものだった。ようやく暮れようとしかけているその地平線から、反対に何物かが生れて来つつあるかのように……
 そんな日の或る午後、(それはもう秋近い日だった)私達はお前の描きかけの絵を画架に立てかけたまま、その白樺の木蔭に寝そべって果物を齧(か)じっていた。砂のような雲が空をさらさらと流れていた。そのとき不意に、何処からともなく風が立った。私達の頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色(あいいろ)が伸びたり縮んだりした。それと殆んど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私達は耳にした。それは私達がそこに置きっぱなしにしてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。すぐ立ち上って行こうとするお前を、私は、いまの一瞬の何物をも失うまいとするかのように無理に引き留めて、私のそばから離さないでいた。お前は私のするがままにさせていた。
  風立ちぬ、いざ生きめやも。
 ふと口を衝(つ)いて出て来たそんな詩句を、私は私に靠(もた)れているお前の肩に手をかけながら、口の裡(うち)で繰り返していた。それからやっとお前は私を振りほどいて立ち上って行った。まだよく乾いてはいなかったカンヴァスは、その間に、一めんに草の葉をこびつかせてしまっていた。それを再び画架に立て直し、パレット・ナイフでそんな草の葉を除(と)りにくそうにしながら、
「まあ! こんなところを、もしお父様にでも見つかったら……」
 お前は私の方をふり向いて、なんだか曖昧(あいまい)な微笑をした。
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