じじぃの「日はまた昇る」

白石正一郎 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
白石正一郎(文化9年3月7日(1812年4月18日)-明治13年1880年)8月31日)は、日本の商人(豪商)。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。贈正五位
【経歴】
文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱いほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であったが、文久元年(1861年)には薩摩藩の御用達となった。月照上人、平野国臣真木和泉らと親しかった経緯から尊皇攘夷の志に強い影響を受けて、長州藩高杉晋作久坂玄瑞らを資金面で援助した。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。
文久3年(1863年)6月7日、高杉晋作奇兵隊結成にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊、正一郎は奇兵隊の会計方を務め、7月には士分に取り立てられた。しかし、あまりに援助しすぎたため、慶応元年(1865年)末頃から資金が苦しくなったと言われている。
明治維新後は、赤間神宮の二代宮司となった。明治13年1880年)、69歳で死去。
西郷隆盛をして「温和で清廉、実直な人物である」と言わしめた正一郎は、新時代を築き上げる人材を経済面で助け上げたスポンサー的存在であった。

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政権交代こそ必要、準備不足を恐れるな」(ビル・エモット) 2009/07/24 Aquarian's Memorandum
今度の選挙で「政権交代」か、それに近いことになるのはほぼ確実だろう。しかし、心配はある。民主党を中心とする勢力が政権を取ったとして、彼らが本当に国政を担えるのか、ということだ。細川ー羽田政権の二の舞になり、時を経ずして再び自公政権に戻ってしまうのではないか。そしてこのような機会がまた何年か何十年か後にしか訪れないのではないか。
 そんな心配は無用との力強い応援が、英誌「エコノミスト」のビル・エモット氏から寄せられている(朝日新聞09/7/15オピニオン欄、「準備のできた野党などない」)。少し詳しく紹介したい。氏は「エコノミスト」誌の東京支局長さらには編集長を務めた知日英国人。著書「日はまた沈む」で日本のバブル崩壊を予測し、「日はまた昇る」で日本経済の復調を予測したことで知られている。
 民主党政権の登場による日本の政治の変化を期待し、民主党の経験不足、政策実現性への懸念を恐れることはないとしている彼の論をまとめると、こうである。
1.民主主義の国では選挙によって、政治に変化が起きるのは当たり前のことだが、日本は長期政権が続き、民主主義の国としては例外的な国だった。
2.しかし、今回の選挙で政権交代が現実のものとなりつつあることは、日本を愛する観察者として大歓迎である。
3.別に民主党に思い入れがあってそう言っているのではない。民主主義が効力を持つためには、政権交代が必要だからだ。より良い政権が実現するということではなく、間違った政権がチェックされることなく長く続くことの害が大きいからだ。
4.政治の安定は望ましいが、あまりに長くなると、説明責任がおろそかにされ、独りよがりになり、腐敗する。官僚機構も野放しにされたままになる。
5.英国の例。一つの政党が約10年政権を担い、交代するというのが理想的。サッチャー・メジャー保守党政権(18年)→ブレア・ブラウン労働党政権(12年)→来年たぶん保守党へ。
6.民主党に政権担当の準備が整っているか。それは間違った質問。用意ができている野党など、どこの国にもない。政権奪取直後から仕事を覚えていくのだ。
7.民主党に政策がない。これも正しくない。社会保障、道路、防衛などについて広範な政策を持っている。問題は党内にさまざまな意見があること。また財政事情からすれば、提案している政策をすべて実行はできまい。
8.世界各国の政治で、野党はどこも同じ事情にある。政権党になれば、政策の優先順位を決めて、限られた資金をどう活用するか答えが出てくる(現時点で財源が明らかにされていないという批判は当たらない)。
9.日本の抱えている問題点に、民主党の政策は目を向けている。格差の拡大、貧困層の増大、非正規労働者の低賃金、年金、失業保険での不平等などの問題が、個人消費を低迷させ、企業の投資の足を引っ張っている。自民党政治は国主導の経済政策でやってきたが、社会福祉面では欧州諸国に遅れている。民主党はこの不均衡を変えようとしている。
10.外交面でも期待できる。中国、インドの躍進でアジアは変わりつつある。日本では政治が停滞し、この状況に対応できないできた。民主党政権の誕生で停滞打破が期待できる。
11.政権交代したからと行って、状況が一変するわけではない。しかし日本が変わるというはっきりしたシグナルを他国に示すことができる。日本の民主主義が機能していると訴えることができる。
12.混乱はあるだろう。しかし新しい人材と新しい考え方をもたらす。
13.いま訪れつつある機会は、恐ろしく刺激的だ。
いささか、買いかぶり過ぎとも思えるが、日本事情に通じた外国人ジャーナリストが、この政治状況をどう見ているか、大いに励まされる評論だ。
http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2009/07/post-a69b.html
【幕末から学ぶ現在(いま)】(28)東大教授・山内昌之 白石正一郎 2009.9.17 MSN産経ニュース (一部抜粋しています)
◆起業成功者の助言や援助
 経団連のリーダーなど財界主流と民主党とのパイプは、これまで細かった。加えて、温室効果ガスの25%削減を目指す鳩山由紀夫代表に対する産業界の違和感はますます強まりそうだ。財界主流の冷淡な態度とは裏腹に、政権交代の必要性を強調しながら、2003年ごろから民主党を支援してきた異色の経営者もいる。
 京セラ創業者の稲盛和夫氏である。氏によれば政権交代とは、しがらみや慣習にとらわれず、国民のもつ主権を正しく行使する良い政権を選択する行為だという。若手を中心に溌溂(はつらつ)としていても、ともすればまとまりのなかった民主党にとって、起業や経営に成功を収めた産業人の助言や援助は、どれほどありがたいことだったろうか。
 総選挙後、すぐ鳩山由紀夫氏や小沢一郎氏が稲盛氏を訪れて礼を尽くした点を見ても、稲盛氏は民主党の指導者たちに相当の感化力をもっているようだ。
 変革の若い担い手が時代を変える情熱にあふれていても、商売人の取引や購買への独特な感覚を欠くと、新たな空気をつかみそこなうものだ。この点で幕末薩長の志士たちも、赤間関(現・下関)の廻船(かいせん)問屋を営む白石正一郎の物心両面の援助がなければ、目まぐるしく変転する幕末の荒波を乗り切れなかったかもしれない。
 正一郎は、現代でいえば海陸運送を営みながら、薩摩藩など西国諸藩の用達もつとめ、1862(文久2)年の島津久光の上洛を支えた。また、中山忠光天誅(てんちゅう)組の挙に敗れて下関に来るや、これを保護することもためらわなかった。吉田松陰門下の久坂玄瑞入江九一らとも身分を越えた交遊を深め、馬関海峡での攘夷(じょうい)戦争にも参加しただけでない。高杉晋作のつくった奇兵隊にも入隊し、家産を傾けるほど私財をおしげもなく投じた。
◆来訪志士は400人
 幕末に正一郎の庇護(ひご)を受けた志士らは、長州人だけでなく、真木和泉平野国臣(くにおみ)、西郷隆盛坂本龍馬、それに七卿落ちの公卿(くぎょう)らなど枚挙にいとまない。その邸宅を来訪した志士は、400人にも及んだという。
 しかし、奇兵隊の会計方を務めた正一郎は、志士らの野放図な金銭感覚や活動への莫大(ばくだい)な出費に苦しみ、明治維新を待たずに商売の資金繰りも苦しくなった。もちろん商人の正一郎は、ソロバン勘定抜きの大義や理想だけで高杉らを助けたわけではないだろう。
 雄大な商いの企図は、長州本藩やその御用商人の横やりで邪魔されたらしい。正一郎は支藩の御用をつとめてはいても、本藩に有力な引きをもたなかったからだ。高杉などがパトロンの苦境を少しは助けても良さそうに思えるが、彼らが口添えした形跡は見当たらない。このあたりが理解に苦しむところだ。
 これは幕末の長州藩士の個性とも化した酷薄な一面に思えて仕方がない。危篤の命を大手術で助けてくれた所郁太郎(ところいくたろう)に生涯会いもしなかった井上馨、恩師・吉田松陰の遺書『留魂録(りゅうこんろく)』を流刑地から持ち帰った徳義の士に身の振り方も尋ねなかった野村靖の振る舞いにはあきれてしまう。
◆先人の教え忘れずに
 維新後、正一郎は商売をたたんで神社の宮司となったが、西郷が「温和かつ清廉、実直な人物」と賛嘆した人物を訪れる長州出身の要人がいたとはあまり聞かない。革命のパトロンに、あまりの仕打ちではないか。正一郎は沈黙を守ったまま死んだ。
 政治変革は冷徹な論理で動くものだ。それでも、一片の人情や侠気(きょうき)がないと、人びとはリーダーについていかない。恩人に現世の利益で酬(むく)いよ、といった功利の弁を述べているのではない。現代日本のような成熟した市民社会では、なおのこと成功におごらず、人びとを心服させる包容力も必要になると言いたいのだ。
 民主党には308議席を獲得した大勝利におごらず、その成長を最初から支え、見守った現代の白石正一郎たちを忘れることだけはしてほしくない。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090917/acd0909170741000-n3.htm
文藝春秋』 10月号
総力特集「政権交代」鳩山民主よ 勝って兜の緒を締めよ 【執筆】京セラ名誉会長 稲盛和夫 (一部抜粋しています)
私はこの10年間、日本が政権交代可能な国になるべきだと主張し続けてきた。2003年に行われた前々回の総選挙の直前には、有志の仲間と「真の政権選択を考える国民会議」(財界や学会などの識者20名)をつくり、「政権交代が可能な国をつくろう!!」という意見広告を新聞に出したこともある。その意見広告の最後は、次のような言葉で締めくくられている。
「私たち『真の政権選択を考える国民会議』は、自由民主党民主党が、具体的な日本の将来像を示し、それをベースに政権を目指した競争が正々堂々と行われることを、そして、すべての国民が主権者としての自覚を持ち、自らの意思で政権の選択を行うことを、また、その結果として、日本に本当に『国民の国民による、国民のための政治』が行われることを期待しています
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今回の総選挙の結果を受けて、民主党代表の鳩山由紀夫氏が新しい総理大臣に就任することになる。私は鳩山氏とはそれほど親しい関係ではないが、「友愛」を自らの政治信条に掲げているように、人柄としては大変優しい性格の持ち主のようだ。そういう意味では、国民のために優しい政治を行ってくれることと思う。これから総理として多くの困難に直面されると思うが、それを乗り越えてさらにすばらしいリーダーになられると期待している。
私は長く政権交代の必要性を主張してきたが、政治家個人との付き合いはあまり多いわけではなく、元々政治にそれほど興味があるわけでもなかった。昔、自民党の中に誕生した「青嵐会」や自民党から分裂した「新自由クラブ」のメンバーだった若手議員たちなどを囲んで、ワコールの塚本幸一氏、ソニー盛田昭夫氏(両氏とも故人)など、財界の諸先輩とともにたまに会食したことがあったに過ぎない。民主党の実力者となった小沢一郎とも、そのころに知り合ったと記憶しているが、当時はまだ顔を知っている程度だった。
私が小沢氏のことを意識し始めたのは、1992年に亡くなった私の母の葬式に小沢氏がわざわざ鹿児島まで訪ねてきてくれてからだ。私は小沢氏とはそれほど親しくなかっただけに、母の葬式にわざわざ鹿児島まで弔問に来て、何も言わずにただ焼香して帰っていったことに驚かされた。それも国会会期中の忙しい最中に、時間をさいて来てくれたという。
その2年後、私の父が他界した時も、小沢氏は忙しい公務の中、再び鹿児島まで来てくれた。その小沢氏の心づかいに感激した私は、それから年に1、2回程度、小沢氏と個人的に会食するようになった。そのような機会を通じて、私は「なんとまじめで誠実な方だろう」と思い、以来人間・小沢一郎に信頼を寄せるようになった。
小沢氏は私と会う時に、生臭い政治の話などは一切しない。何か特別な頼みごとをするわけでもない。そのため、私は世間で言われているような、政治家・小沢一郎という面はあまり知らない。唯一、小沢氏の『日本改造計画』という著書を読んで、その政策に共鳴したことがあるくらいだ。マスコミでは小沢氏の毀誉褒貶(きよほうへん)や剛腕ぶりが盛んに報道されているが、私との付き合いの中で、小沢氏のそういう面を垣間見たことは一度もない。
逆に、私のほうが小沢氏に対して、フリーハンドの立場で「それはちょっとおかしいのではないか」とストレートにものを言うことのほうが多い。小沢氏は私の批判をよく聞いてくれるので、私のことを多少は信頼してくれているのではないかと思っている。

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どうでもいい、じじぃの日記。
9月16日、衆参両院本会議での首相指名選挙で、民主党鳩山由紀夫代表が第93代首相に選出された。
文藝春秋』 10月号に稲盛和夫さんの【「政権交代」鳩山民主よ 勝って兜の緒を締めよ】が載っている。
記事を読んで、民主党が勝利した影の立役者が稲盛和夫さんだったことを知った。
9月17日の産経新聞の【幕末から学ぶ現在】に白石正一郎のことが書かれている。
白石正一郎? 聞いたことがない。
「この点で幕末薩長の志士たちも、赤間関(現・下関)の廻船(かいせん)問屋を営む白石正一郎の物心両面の援助がなければ、目まぐるしく変転する幕末の荒波を乗り切れなかったかもしれない」がある。
こんな人もいたんだ。
後で、もう少し調べてみよう。