じじぃの「人の死にざま_60_前田・正名」

前田正名 - あのひと検索 SPYSEE
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前田正名 ウィキペディアWikipedia) より
前田正名(まえだまさな、嘉永3年(1850年)-大正10年(1921年))は、明治の官僚。男爵。北海道阿寒町(現在の釧路市阿寒町)に財団法人前田一歩園の基を設立し、阿寒湖周辺の森林を購入し保護を図るなど、自然保全に貢献した。
父は薩摩藩医前田善安の6男。兄に前田正穀(献吉)がいる。明治期における殖産興業政策の実践者としてしられ、「布衣の農相」とも呼ばれた。妻は大久保利通の姪・いち(利通の妹・石原みねの次女)。

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『世界危機をチャンスに変えた幕末維新の知恵』 原口泉著 PHP新書 2009年発行
第4章 松方正義と前田正名の工農対立 (一部抜粋しています)
輸出品で日本の評判を落とさぬよう「特許法」を提案
前田正名は、日本の在来産業の輸出品に粗悪品が出ていることを憂慮し、粗悪品を何がなんでも絶たなければならないと思っていました。
そこで考案したのが、内向けにつくった「特許法」でした。
今の中国などにはぜひ見なってもらいたいところですが、後進国だから「特許法」などはないほうが儲かるという考え方では行きづまります。どんな国でも、それぞれが持つ伝統的な産物で外貨を稼ぐほうが持続的に利益を得ることができるのです。
そのためには、産物・製品の質を高め、信頼性を増さなければなりません。
日本で特許制度が知られるようになったのは、鎖国の時代が終わり、遣欧使節団の一員としてヨーロッパに渡った福沢諭吉が『西洋事情』のなかで、欧米の技術進歩の背景にある特許制度の重要性を紹介したことにはじまります。
しかし、まだ当時の国民には特許制度は十分に理解されず、明治4年(1871)に「専売略規制」が政府から布告されても、発明品を審査する人材不足などの問題もあって、現実には運用がむずかしく、1年で廃止になってしまいました。
その後、明治10年に開かれた第一回内国興業博覧会において、臥雲辰至が日本初の臥雲式紡績機を発明出展し、最優秀賞を獲得しました。が、のちに大量の模倣品が出まわりました。
このようにして、「特許法」がない社会では、ロイヤリティー特許権)が得られないまま、同業者から模倣品を製造・販売されてしまい、老舗の名を騙って粗悪品を売るという悪質な商売まで現れることになります。
その結果、市場が混乱すれば、本当にいいものはつくられず、日本の製品を海外に輸出することは叶わなくなるでしょう。
こうした状況を憂えた前田正名は、「特許法」を整備し、粗悪品・模倣品を取り締まる必要があると考え、『興業意見』の作成にもつながったのです。
ここで前田のいい相談相手になったのが、アメリカ帰りの森有礼でした。森に自分の考えを説き「特許法」をだれに任せればいいかを相談したところ、森は高橋是清を推薦しました。そんな経緯で、高橋是清が初代特許庁長官に就くことになりました。
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農産加工業・地域伝統産業の見直しとともに、当然そこに求められる品質管理の問題にまで目配りしていた前田正名の「新しさ」に改めて驚かされます。

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特許制度の制定に貢献した先人たち
http://www.jpo.go.jp/seido/rekishi/1304-105.htm