じじぃの「人の生きざま_196_中松・義郎」

中松義郎 - あのひと検索 SPYSEE
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ドクター・中松 日本の偉大な発明家 動画 YouTube
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発明家 ドクター中松 特許集 ニコニコ動画
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中松義郎 ウィキペディアWikipedia)より
中松義郎(なかまつよしろう、通称: ドクター中松、1928年6月26日 - )は、日本の発明家、実業家である。ドクター中松創研代表取締役日本文化振興会会長。
【灯油ポンプ】
いわゆる灯油ポンプではあるが現在流通しているものとは仕様が違う。これは、中松が中学生の頃に母親が醤油を瓶に移し替えるのに苦労しているのを見て、灯油ポンプを元に発明したものであるという。ちなみに、特許明細書13297号(1907年)で特許を得ている人は別人であり、特許庁で実用新案として登録されている「醤油チュルチュル」はまったく別の構造である。
フロッピーディスクの発明者との主張】
中松がフロッピーディスクの発明者であり特許を取得したと主張し、これが話題になったため、一時期盛んにテレビやラジオに出演した。五ツ木書房の「Selett」のテレビCMでは、「私の発明にはフロッピーディスクがある」という中松のセリフを流したことがある。また、2010年現在「ドクター中松 創研公認オンラインショップ」でも、「フロッピーディスクの発明者、ドクター・中松」として関連商品を販売している。
IBMは自社の特許を守るため、当時ディスケットの構造に抵触しそうな他者の特許に対して契約を結んでいた。中松の特許もその一つに過ぎず、これは、IBMがディスケットを日本で発売する際に、中松との紛争を避ける目的である。その契約内容は技術的なものではなく、エンベロープの意匠に関するものであったとされている。
【イグノーベル賞受賞】
2005年(平成17年)、「35年間に渡り自分の食事を毎回撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析し続けたこと」に対して、ノーベル賞のパロディであるイグノーベル賞(栄養学賞)が贈られた。

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産経新聞 2012年4月7日より
「発明家 ドクター・中松さん」 (一部抜粋しています)
80年近い発明人生の始まりは、5歳の時。模型飛行機に熱中し、1ミリでも遠くに飛ばそうと、身の回りの木片や金属などを組み合わせ、試作と改良を重ねた。やがて風ルインからひらめき、「自動重臣安定装置」を発明。これで滞空時間が飛躍的に伸び、脚を収納する装置まで完成させた。
「大人に交じって出場した競技会で、私の飛行機は誰よりも長く飛び、また脚が引っ込むと自然に拍手が湧き起こった」
自分の創意工夫が、周囲の人の表情まで明るくするのがうれしかった。発明というと一獲千金のイメージがあり、企業内研究者が発明対価を求める訴訟も珍しくないが、そんな風潮には批判的だ。「金もうけのための発明はしない。すべて他人に喜んでもらいたい、その一心。発明は愛だ」
ユーモラスな発想や商品名も、周囲を喜ばせたいという愛の結晶。灯油ポンプの原型となった「醤油チュルチュル」という発明品も、14歳の時、しょうゆの移しかえに苦労する母親を思ってこしらえた。
「発明は時間がかかる。私は常に500の発明を並行している。それらを成功させるまで死ねない」。落選しても国政や都知事選に繰り返し出馬するのも、このネバーギブアップの精神が支える。それは昭和19年春、海軍機関学校を受験した経験が大きい。
「血眼で勉強し、身体を鍛えた。当時の最難関で、入学倍率は150倍だった」。入学するための身体条件の1つは胸囲75センチ。しかし身体検査の意地悪そうな水兵に、腹に近い部分を測られた。結果は74センチ。確かに75センチまで鍛えたのに、これでは筆記試験すら受けられない。
呆然と検査室を出て、気づくと思いきった行動に出ていたという。偶然廊下の向こうから歩いてきた海軍将校をつかまえ、今の検査の顛末と、自分がいかに勉強と鍛錬を重ねたかを訴えた。黙って聞いてくれた将校の立ち会いのもと、もう一度胸囲を測ると75センチ。筆記試験もパスし、難関を突破できた。
「諦め切れず、体当たりした。必死な訴えと真摯な態度が、将校の心を動かしたと思う」
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戦後は東大で学び、三井物産に入社。「人の三井」と言われる社風で、自由にヘリコプターの研究をすることができた。農薬散布や空中架線設置など新たな利用法を考え商品化し、売り上げを伸ばすのは楽しかった。会社も「中松室」なる特別室まで作って優遇してくれたが、29歳で独立を決めた。
「会社には今も感謝している。ただ会社の枠に収まりきらなくなり、今でいうベンチャー企業設立の道を選んだ」。発明自体が人のやらないことをやる行為。誰も歩かない険しい道を、諦めず進む過程を工夫するのが楽しい。
「私の造語で『撰難楽』というのは、バカは安易な道を、天才は困難な道を選ぶという意味。その過程を楽しみ、自分の人生を発明できる人を天才という」
独立後は国内外の大学で教える一方で、発明を続けた。今も4時間の睡眠で頑張るその手には、頭に効くという「ブレンドリンク」のカップが握られている。
「失敗しても絶対に諦めない。失敗から学び、最終的に成功させる。失敗のまま終わらせないから、失敗しない」。この不屈の精神と愛が発明を生む源になっている。

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