じじぃの「人の死にざま_1193_清浦・奎吾」

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第23代・清浦奎吾内閣
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熊本で最初の総理大臣「清浦奎吾」 〜 日々雑感 〜
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清浦奎吾 ウィキペディアWikipedia)より
清浦 奎吾(きようら けいご、1850年3月27日(嘉永3年2月14日) - 1942年(昭和17年)11月5日)は、日本の司法官僚、政治家。
貴族院議員、司法大臣、農商務大臣、内務大臣、枢密顧問官、枢密院副議長、枢密院議長、内閣総理大臣などを歴任した。
【生涯】
1884年明治17年)、全国の警察を統括する内務省警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任期間は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の内務大臣は、5年余りが山縣であった。そして、この間に得た山縣の信頼を背景に、清浦は出世の階段を順調に上ることになる。
1891年(明治24年)には貴族院議員に任じられ、翌年より貴族院の会派の一つであった研究会に所属する。実務に明るい清浦はたちまちのうちに代表者とみなされるようになり、以後枢密顧問官に転じる1906年明治39年)まで研究会を率いてここを貴族院における親山縣・反政党勢力の牙城にするとともに、伯爵以下の議員の互選に際しても選挙運動で活躍して研究会を第1会派に育て上げた。
内閣総理大臣退任後、清浦は重臣に列し、新聞協会会長なども歴任した。1941年(昭和16年)の重臣会議で東條英機の後継首相擁立を承認したのを最後に政治活動から引退。1942年(昭和17年)11月5日、92歳の長寿を全うして死去した。

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『近代日本の官僚』 清水 唯一朗/著 中公新書 2013年発行
帝国憲法制定前後――高等教育の確立 (一部抜粋しています)
明治維新後の時代を背景に、立身出世にはわずかでも洋学を学んだものが有利であった。洋行経験者が官僚として優遇されたのは見てきたとおりである。しかし、多くの青年はその機会に恵まれず、以前と同じように漢学と国学を学んでいた。また、ある程度の年齢に達するまでは洋学を教えるべきではないとの考えもあった。洋学の総本山であった大学南校でさえ、幼いときは漢学や国学を学ぶことが重要であるとして、16歳以下の入学を禁止している。
しかし、藩閥が幅を利かせ、洋行帰りがもてはやされるなか、漢学で身を立てていくことは容易ではなかった。国内屈指の私塾である日田咸宜園(ひだかんぎえん)で令名を馳せた清浦奎吾の歩みはそのことを教えてくれる。
1850(嘉永3)年、熊本山鹿郡鹿本にある本願寺派の寺院に生まれた清浦は、咸宜園で舎長まで務める秀才であった。
王政復古ののち、清浦は熊本城下に私塾を開いていたが、1872(明治5)年、意を決して上京する。彼を奮起させたのは、東京から届く咸宜園同窓生たちの活躍であった。清浦は日田で縁のあった野村盛秀を訪ねた。野村は初代埼玉県令となっていた。
野村は清浦に県の教育制度整備を託し、埼玉県大教授に任じた。官名こそいかめしいものの、実態は14等出仕という下級県吏である。しかし、清浦は待遇を難ぜず教育基盤の整備に邁進し、近県にも存在を知られる実務官僚となった。
1876年8月、清浦は司法省治罪法取調局勤務を命じられて上京する。彼を中央に呼び寄せたのは咸宜園でともに学んだ横田国臣(のち大審院長)であった。当時、司法省はフランス人顧問のボアソナードのもとで法令整備のただなかにあり有能な人材を集めていた。国内法を制定するためには、洋学だけでなく、漢学、国学に通じた人材が必要であった。ボアソナードという優秀な指導者を得て、清浦は法学を実地で学ぶ機会を得る。刑法の専門家となった彼は太政官法制局、参事院へと展示、制度整備の中心で研鑽を積んでいく。
自らの専門を確立したことで、活躍の場は広がった。1883年末には警察制度の整備を急ぐ内務省に迎えられ、翌年には警保局長に就任した。故郷を発って12年目のことである。士族から警邏(けいら)に転じたものの多い警察には制度設計に長じた人材がおらず、刑法、治罪法に通じた清浦に白羽の矢が立ったのだ。
もっとも、それは類のない努力の結果であった。故郷の鹿本(現、山鹿市)に寄贈された彼の蔵書には各国の警察制度に関する和洋書が多く残っているが、それらは清浦のものと思われる書き込みで埋めつくされている。山県系官僚として知られる彼は、のちに枢密院議長となった折に「私は藩閥なく、門閥なく、叉学閥もなければ姻戚閥もない。何ら頼るべきところの頼みの綱というものは一筋もなかったので、脛1本腕1本、我力で叩き上げなければならぬという境遇であった」(『伯爵清浦奎吾伝』)と回顧している。それは閥の力ではなく実力で道を開いた彼の数少ない自賛のことばであった。

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