じじぃの「人の死にざま_53_ヘレン・ケラー」

ヘレン・ケラー - あのひと検索 SPYSEE
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Helen Keller - Her Amazing Story 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=gbCk_DQCOp4
世界一受けたい授業SP 「東大生が尊敬する偉人Best50」 2015年3月28日 日本テレビ
【校長・教頭】堺正章上田晋也 【生徒役】有田哲平、小崎遼太郎、澤田有也佳、高城亜樹高畑淳子千原ジュニア比嘉愛未松尾スズキ満島真之介、LiLiCo、本郷和人、小柳津広志、平木敬、生田幸士、大谷勝、茂木健一郎、その他
現役東大生に聞いた 尊敬する偉人BEST50。
東大生の尊敬する偉人ランキング1位がスティージョブズ
第1位 スティーブ・ジョブズ
第2位 アインシュタイン (物理学者)
第3位 マザー・テレサ
第4位 手塚治虫
第5位 エジソン(発明王)
第6位 レオナルド・ダ・ヴィンチ (コンタクトレンズの原理も発見)
第7位 ヘレン・ケラー
第8位 夏目漱石
第9位 ガウス(数学者)
第10位 坂本龍馬
http://www.ntv.co.jp/sekaju/
ヘレン・ケラー ウィキペディアWikipedia)より
ヘレン・アダムス・ケラー(Helen Adams Keller、1880年6月27日-1968年6月1日)は、アメリカの教育家・社会福祉事業家である。自らも重い障害を背負いながらも、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に尽くした。 87歳で死亡。

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TIMEが選ぶ20世紀の100人〈下巻〉アーチスト・エンターテイナー・ヒーロー・偶像・巨頭 徳岡孝夫 訳 1999年発行
【奇跡】ヘレン・ケラー 【執筆者】ダイアン・シュール (一部抜粋しています)
ヘレン・ケラーが熱病にかかったのは、まだ2歳になる前のことだった。病は突然、激しく襲いかかり、意識不明に陥った。熱病は、襲いかかったときと同じく、あっという間に去っていった。だが、彼女は目が見れなくなり、その直後に耳も聞こえなくなった。
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わたしは見るという言葉を発することができる。わたしは目が見える人と同じ言葉が話せる。それは、ヘレン・ケラーにとっては最初の偉大な業績のひとつだった。彼女は目や耳の不自由な人が言葉によって解放され得ることを示した。彼女はこう書いている。「文字はわたしのユートピアです。そこでは、わたしは権利を奪われることがないのです」。だが、言葉の習得に彼女はどれだけ苦労したことか。その著書『流れの中ほどで』の中で彼女は、アルファベットや聾者の言葉に、さらには彼女のてのひらに先生が字をつづってくれるスピードの遅さにまで、いかにいらだちを覚えたかを記している。彼女は言葉が知りたくてたまらず、言葉に飢えていた。そして、先生が手に書いてくれる走り書きでは、自分の目で文字が読める人と同じ速さで読むことは決してできない、と彼女は思っていた。ようやくブライユ点字が理解できるようになった後、本がどれだけ助けになったかを、わたしは覚えている。盲学校にいることは孤児院にいるようなものだった。だが、言葉−−そして、わたしの場合は音楽−−がその孤独な世界を変えてくれた。聞くことも見ることもできなかったケラーは、言語によって、視覚と聴覚の世界の中で彼女自身の意思を伝えられること−−そして、その世界に向かって話し、その世界に住むことができること−−を証明してみせた。わたしは彼女の業績の恩恵にあずかっているひとりだ。彼女の前例があるがゆえに、世界は少し(わたしたちに対して)道を開いてくれた。わたしの場合、州立盲学校を出て11歳から高校の最終学年まで、普通の公立学校に通うことができた。その後、わたしはみずからの意思で盲学校に戻った。いま、わたしはジャズを歌っている。
ケラーの言語の習得は驚異的なことに思えるかもしれないが、彼女のその業績は19世紀に成し遂げられたものだ。それはまた、忍耐強く、粘り強い教師、アン・サリバンとの共同作業の末に生まれたものだった。ヘレン・ケラーがそれをさらに上回る偉大な業績を残すのは、彼女の友であり保護者であったサリバンが1936年に他界した後のことだ。ケラーはサリバンの死後32年間生き、その間、障害者が自立できることを身をもって示した。ハンディキャップ(身体的障害)がある、という言葉がわたしは嫌いだ。ケラーもそうだったはずだ。わたしたちは少し、不自由を抱えた人間だ。哀れみをかけられる存在ではない。彼女はかって、第2次大戦で障害者となった退役軍人にどう接したらよいかと尋ねられた時、こう答えている。彼らは「英雄扱いされることを望んではいません。普通に暮らせること、人間として扱われることを望んでいるのです」。
『奇跡の人』を通してしか彼女を知らない人は、彼女のさまざまな側面を見つけて驚くだろう。彼女は書いている。「目が不自由な人のための仕事は、わたしという人間の中心を成すものではありません。わたしは、公平さを求めて闘うすべての人々に共感を抱いています」。彼女は人種と男女の平等を求める、疲れを知らぬ活動家だった。かって彼女は、「男性にふさわしい伴侶とするため、神は女性を愚かにつくったのだと思う」と語った。あまりにも左寄りの意見を持っていたため、J・エドガー・フーバーFBI連邦捜査局)の監視対象となった。彼女が選んだ、今世紀もっとも偉大な人物はだれだったか。トーマス・エジソン、チャリー・チャプリン、そして、レーニンだ。さらにケラーは、ボードビルの巡回公演に出演して自分の技能を披露した。それが自分の体面にかかわることだとは考えなかった。しかし彼女の友人たちは、低俗な舞台に出ようとする彼女の大胆な行動にショックを受けた。彼女はさまざまな面を持っていた。彼女が伝える主要なメッセージは昔もいまも変わらない。「わたしたちはほかのすべての人々と同じです。目の見えるすべての人々と同じように豊かな人生を生きていくことができるよう、存在しているのです。わたしたちは、あるがままのわたしたちでいいのです」。
つまり、わたしたちには、目が見える人と同じように、ほかと違った特別な存在になる自由があるということだ。ケラーは聴衆を前にした時の、「自分の周囲に流れる人間の命の温かい潮流」が大好きだと書いている。それゆえに彼女はステージに魅力を感じ、話し、演説することを学んだ。そして音楽、ラジオ、唇の動きの振動を感じ取ることも学んだのだ。目が見える人以上に、わたしたちは触れてもらう必要があることを理解してほしい。人が視線を交わす時、それは触れているに等しいのだとわたしは思う。わたしたちには、その便利さがない。だが歌う時、わたしは聴衆からそうした経験をさせてもらう。ヘレン・ケラーもそうだったに違いない。彼女はわたしたち(目の不自由な人々)の最初のスターだった。そして、わたしは彼女にとても感謝している。

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ヘレン・ケラー物語
http://www.helenkeller.or.jp/hkstory.htm
余話
ヘレン・ケラーは1937年(昭和12年)に日本を訪れて、秋田に行った時に秋田犬を所望した。翌月に彼女に贈られた「神風号」は、初めてアメリカに渡った秋田犬だそうです。
ヘレン・ケラーの言葉
「盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです」