じじぃの「人の死にざま_45_山田・風太郎」

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映画『くノ一忍法帖 影ノ月』予告編 動画 YouTube
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山田風太郎記念館/トップページ
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次回の知ってるつもり?! 日本テレビ
2001/11/11 放送 戦中派偏屈老人・山田風太郎

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クローズアップ現代 「我が愛する日本へ 〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」 2011.6.29 NHK 動画あり
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風伊藤整山田風太郎など、およそ30人の作家の日記でした。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3065
山田風太郎 ウィキペディアWikipedia)より
山田風太郎(1922年(大正11年)1月4日-2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田 誠也(せいや)。伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説の大家。
忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。
79歳で死亡。
【生い立ち】
兵庫県養父郡関宮村(現在の養父市)に生まれた。父母ともに代々医者の家系で、父は同地で「山田医院」を開業していた。
22歳の時に東京医学専門学校(後の東京医科大学)に合格して医学生となった。 入学後は虚無的な青年として、読書を心の支えに戦時下の生活を送る。
学生であった戦時中から戦後しばらくにかけて書き記していた日記は記録文学の傑作との呼び声が高く、著者の再評価にもつながった。
【室町と晩年】
1989年(平成元年)、足利義政を主人公とした『室町少年倶楽部』を皮切りに、資料面の不足などから当時敬遠されていた室町時代を舞台にした“室町もの”と呼ばれる作品群を発表した。この中には、以下のような作品がある。
婆沙羅』 - 南北朝時代に、ばさら大名と呼ばれた佐々木道誉の奔放な人生。
『室町お伽草紙』 - 少年時代の豊臣秀吉を中心に、京に集った若き日の織田信長武田信玄上杉謙信の物語。
十兵衛 三部作の完結編『柳生十兵衛死す』(1991年(平成3年)発表)
柳生十兵衛死す』は「小説を書くとその分命を縮める」と考えていた山田が書いた最後の小説でもあるが、実際は白内障や糖尿病、パーキンソン病を次々患ったことで執筆活動そのものが困難になっていたようである。そのためか晩年には、アイデアはあると語っていたが、小説にすることはなかった。室町時代を舞台に蓮如狂言回しとして、八犬伝の犬士たちが活躍する室町ものの構想もそのひとつであるが、もし執筆されれば室町ものと忍法帖とのあいだの年表上の空白を補い、「忍法八犬伝」、「八犬傳」とあわせて八犬伝三部作ともいえる作品になったはずであった。なお、室町・戦国・江戸・明治・戦後初期と、それぞれ舞台とした小説の空白期間である、大正期・戦前期についての作品を書いて、風太郎サーガとして「時代の流れをすべて続ける」構想もあったようだ。
90年代は随筆や対談、インタビュー集が出版されたが、その中でもパーキンソン病にかかった自分自身を見つめたエッセイ『あと千回の晩飯』は出色の出来である。
命日である7月28日は奇しくも師の江戸川乱歩の命日と同日である。晩年から死後にかけては「戦中派天才老人」などと呼ばれることが多い。
【歴史・死生観】
上に挙げたようなカテゴリーに当てはめられる作品群以外にも、優れた著作がある。その中でも、
太閤記にはじまる英雄としての豊臣秀吉を疑問視し、徹底的なエゴイストとして描き切った『妖説太閤記
江戸時代の作家、曲亭馬琴の著作、南総里見八犬伝を再構成した上で、八犬伝の世界を“虚”、その作者である馬琴の世界を“実”として交互に綴るという構成の『八犬傳』は圧巻である。余談だが、山田は毎日の献立や出納などを全て日記に記録しており、同じことをしていた馬琴と共通するものがあったという。
上記以外の著作としては、
自身の昭和20年の日記である『戦中派不戦日記』
上記以外に太平洋戦争の開戦当日と終戦に至るまでの数日、日米双方で起きた出来事をピックアップして時系列順に並べた『同日同刻』
古今東西の著名な923人の臨終の様をまとめ、死亡年齢順に並べた『人間臨終図巻』
等が知られる。他に学生時代の書簡集や、自身の子供の成長を書き記し、後に嫁入り道具として娘に持たせたという『山田風太郎育児日記』がある。

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『人は死んだらオシマイよ。』 山田風太郎 PHP文庫
第5章 臨終つれづれ草 (一部抜粋しています)
いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。
といって、別にいまこれといった致命的な病気の宣告を受けたわけではない。72歳になる私が、漠然とそう感じているだけである。病徴というより老徴というべきか。
「つひにゆく道とかねてききしかど きのふけふとはおもはざりしを」
という古歌を知っている人は多かろう。この「つひにゆく」を「ついにくる」と言いかえて老いと解釈すれば、人生まさにその通りだ。
死は諦念をもって受けいれても、老いが現実のものとなったときはるかに多くの人が、きのうきょうのこととは思わなかったと狼狽して迎えるのではあるまいか。
野球の王、長嶋も、終わりの2、3年、「こんなはずではないが・・・・」というこの狼狽が見られたし、相撲の北の湖にも同様の現象が見られた。超人的な人間ほど自分の力の衰えに対する狼狽が甚だしいようだ。むろん彼らがほんとうに老人になったわけではないが、その道における老化は非情なフィナーレのラッパを吹き鳴らしていたのである。
万葉の歌人山上憶良にみずからの老いを悲しむ歌がある。
「……四支動かず百節みないたみ、身体はなはだ重く、なほ鈞石(きんせき)を負へるがごとし。布にかかりて立たむとすれば翼折れたる鳥のごとく、杖によりて歩まむとすれば足跛(な)へたる驢(うさぎうま)のごとし」
これを詩人らしいオーバーな表現だと思っていた。事実いまの私がそんな状態だというのではないが、しかし遠からぬうちにそういうことになりそうな予感を、骨や筋肉や内臓の深部から聞いているのである。
                              『あと千回の晩餐』
私が『人間臨終図巻』という本で、東西古今の有名人の死の様相を書きつらねて見せたのは、実はただ伝記的興味からであったが、それでも千人近くも書けば、結果として、「どんな死に方がのぞましいだろうか」とか、「だれを見習ったらいいだろうか」というような発見が出て来るかも知れない、という気持ちもいささかあった。
結論としては、あたりまえかも知れないが、これはという見本は得られなかった。「望ましい死とは、自分で選ぶことができるなら選ぶであろう死のことである」と、ある西洋の学者が当然のことをいっているけれど、そもそも人間は、自分で死に方を選ぶことは出来ないのである。
自殺は、たしかに自分の意思による死にちがいないが、大半それは外界で追いつめられたあげくの意思である。これに対し、徹頭徹尾自家製の死に方をした――それぞれかたちはちがうけれど、たとえば大石内蔵助とか、三島由紀夫とか、(冒険家の)植村直巳などは、その意味で幸福な死といえるかも知れない。ただし、これらの例を見てもわかるように、とうてい常人にまねられる死に方ではない。
                              『半身棺桶』
自分の死は地球よりも重い。他人の死は犬の死よりも軽い。
                              『人間臨終図巻 上巻』
生は有限の道づれ旅
死は無限のひとり旅
                              『人間臨終図巻 下巻』

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