じじぃの「人の死にざま_658_伊藤・整」

伊藤整 - あのひと検索 SPYSEE
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旅する読書日記 日本文壇史
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クローズアップ現代 「我が愛する日本へ 〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」 2011.6.29 NHK
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風伊藤整山田風太郎など、およそ30人の作家の日記でした。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3065
NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ 〜ドナルド・キーン 文豪との70年〜」 2015年10月10日
【ナビゲーター】渡辺謙 【ドラマ出演】川平慈英篠井英介斉藤由貴南野陽子
「日本人と共に生き、共に死にたい」大震災の直後、日本国籍を取得したアメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーンさん93歳。
キーンさんは戦後70年に渡って、日本の文学の魅力を世界に伝え続け、「日本人よりも日本を知る男」とも呼ばれる。
番組では、ドラマとドキュメンタリーを交差させながら、その波乱に満ちた歩みを描く。最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にした。
伊藤整の「太平洋戦争日記」には、戦争への賛美と必勝の信念が書き綴られている。作家という知識階級に属していても、いかに日本人が西洋人に対して異常なまでの敵意を抱き、戦争によって今までの屈辱を晴らそうとしていたかを推測することができる。
アッツ島日本兵士が残した日記に、戦地での正月では13粒の豆を7人で分け合って祝ったことが書かれていた。
番組では、高見順伊藤整松尾芭蕉石川啄木等の日記を読み解くことで、日本人の豊かな感性が分かると言う。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586635/index.html
伊藤整 ウィキペディアWikipedia) より
伊藤整は、日本の小説家、文芸評論家。本名は整(ひとし)。日本芸術院会員。
社団法人日本文藝家協会理事、東京工業大学教授、社団法人日本ペンクラブ副会長、財団法人日本近代文学館理事長などを歴任した。
【人物】
20世紀日本文学の重要な小説家・文芸評論家の一人。昭和初期にジェイムズ・ジョイスらの影響を受けて「新心理主義」を提言。『ユリシーズ』を翻訳する。北海道時代には詩作を中心に行い処女詩集『雪明りの路』で注目されるものの、上京後は詩作を離れて小説・評論に重心を移す。戦前・戦中は詩壇・文壇でのみ知られた存在だったが、戦後は旺盛な著作活動に加え、ベストセラーや裁判の影響もあり、もっとも著名な評論家の一人となった。
私小説的文学の理論化をめざすとともに自身も創作を行った。自伝的小説として『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』などがある。評論では『日本文壇史』『小説の方法』「近代日本人の発想の諸形式」「近代日本における『愛』の虚偽」などがある。『氾濫』『変容』『発掘』は、夏目漱石の衣鉢を継ぐ近代小説三部作である。また評論家としては、谷崎潤一郎の支持者だった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
伊藤整(いとうせい) (1905-1969) 64歳で死亡。 (一部抜粋しています)
伊藤整は昭和44年2月ごろから、自動車に乗ると吐いたり、便秘や血便の症状があったが、彼はその重大性に気がつかなかった。
しかし4月28日ついに倒れて床についてから、その憔悴(しょうすい)ぶりが甚だしいので、妻が、いやがる彼を説得して神田の同和病院に入院させ、診断の結果、5月11日、開腹手術を受けた。手術後、医者は「非常に残念なことを申しあげます」といい、多分胃に発生したガンがいまや肝臓、直腸をはじめ腹腔一杯にひろがっていて、もう手のほどこしようもないことを家族に告げた。
家族はこのことを整に秘した。
「手術後、1週間くらい父は苦しんだ。ベッドから転げ落ちるほどの苦痛に耐えた」
と、次男の礼は書く。
「父の苦しみが極まり、強く折檻された犬が最後に悲鳴もあげえなくなったときのように、父がただ顔を歪(ゆが)めるだけになったとき、今まで若々しいと思っていた父が、一瞬にして老境におちこみ、苦しみをこらえる力も意地も失くし、ただ芋虫のようにベッドでのたうちまわっているように見えてきた。(中略)
そのうちに私は、そうやって苦しんでいながら、父がじつはものすごく歯等をたてているのだということに気がついた。鼻孔に酸素吸入のゴム管を押しこまれ、そのゴム管を頬に絆創膏(ばんそうこう)で貼りつけられ、唇をからからに干(ひ)からびさせ、腸のなかにもビニール管をさしこまれ、その先端からは四六時中じとじとと便がながれ出す。そのようなありさまでまさに芋虫のように身動きもできずに横たわった人が、ものすごく腹をたてているのだ。それは書斎から無理やりに引き離してしまった病に対する怒りだった」
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7月にはときどき帰宅を許され、8月には退院した。しかし9月にはいると、また吐気と食欲減退に悩まされるようになった。
10月18日、彼は、明後日がん研附属病院に入院する決心がついたことを家族に伝え、
「おれは今度の病気では死なない。死なないが、がんかも知れない。そうだったらしかたないが、おれはがんではないと信じている」
と、いった。しかし、その夜彼は日記に書いた。
「貞子(妻)たち、決してがんでないというが、私は最悪を考えて、涙流れる。『年々の花』ひとつでもまとめたし。『発掘』『三人のキリスト者』それぞれ1週間必要、文壇史の三章(明治45年)書き足し、全篇の訂正は大事業にて、私がいま死んだら……」
それは未完の長編や、なかんずく18年書きつづけて来たライフワークの『日本文壇史』への妄執であった。
人は死に臨んで、多くはおのれの「事業」を一片でもあとに残そうとあがく。それがあとに残るという保証はまったくないのに。――これを業(ごう)という。
10月20日、整はがん研病院に入院した。
11月13日まで、彼はトイレに一人でいった。病み衰えた顔に眼を大きく見ひらき、宙をにらみすえるようにして歩いた。
しかし、その夕方から高熱と悪寒を発し、医者はひそかに臨終の近いことを告げた。14日、妻はあちこちに電話をかけ、見舞客が続々と駈けつけたが、整はだれにも会いたくないといった。
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苦しみと眠りは10分おきになり、15日の朝が来た。整はふいに眼をあけて、「いやな夢を見た」といった。死に瀕しても、人間の脳はなお悪夢を夢みる!
「昼ごろのどに痰のからむような様子を見せはじめたので、私たちが綿棒や吸引器で取ってやろうとすると、上手に取れるように父が協力してくれるのが分かった。3時40分、父は昏睡におちた。そして、呼吸が止んだのは4時50分だった」と、礼は記す。

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