じじぃの「我が愛する日本へ・ドナルド・キーン&CW・ニコル!クローズ」

Donald Keene Close-up interview Pt. 1 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=OXILZNrX_a4&feature=fvwrel
キーン教授が「最後の授業」で日本永住、帰化報告(11/04/27) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ZRH8WAT_FqI&NR=1
C・W・ニコル Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=qCPOTMWvLoTKvQPP_6nJDw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCsQsAQwAA&q=C%E3%83%BBW%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%AB%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1
Donald Keene Google 検索
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnsbo&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=Mpe3Tf3UH4-KvQPGh72iAw&ved=0CFEQsAQ&biw=969&bih=499&q=Donald%20Keene
高見順 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E9%AB%98%E8%A6%8B%E9%A0%86&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=xCAOTsfkKMXhrAfQzbyxCw&ved=0CDEQsAQ&biw=922&bih=540
ドナルド・キーンさん:「中尊寺を訪ねたい」 NYで最終講演 2011年6月14日 毎日jp
日本文学研究の第一人者で、日本永住を表明している米コロンビア大学ドナルド・キーン名誉教授が13日、ニューヨークのジャパン・ソサエティで「ニューヨーク最終講演」と題して講演した。
教授は「(日本移住で)多くの人から『勇気づけられた』と言われた。そうならば本当にうれしい」と述べ、移住後、かつて自ら歩いた「奥の細道」の舞台で東日本大震災の被災地である東北地方を訪問することを「検討している」と語った。関係者によると、教授は中尊寺岩手県)を訪れたいとの意向を示しているという。
http://mainichi.jp/enta/art/news/20110614dde041030022000c.html
『石油に頼らない―森から始める日本再生』 養老孟司/著、日本に健全な森をつくり直す委員会/著 北海道新聞社 2010年発行
日本が一番好きだ 【執筆者】C・W・ニコル
僕が泣いたのは、ひとつには、悔しかったからです。こんないいブナ林があるのか。わがケルト人は自らを"森の民族"と言っていたのに、なぜ森を残してくれなかったのか。「なぜ、もっと戦って、森を残してくれなかったのか!」それが悔しかったのです。
もうひとつは、うれしかったのです。僕がこの美しいところに入れた。ほかのウェールズが入ってない。この天国――エデンの園のようなところを見たことないだろう。本当に日本に「ありがとう」という気持ちでした。僕を案内してくれた先輩たちにも、感謝でいっぱいだったんです。
その時から、僕は、「日本を愛してしまった」のです。
日本の文化はどうしてこんなに美しい森を残せたのか。どんな川にもヤマメのような美しい魚がいる。誰でもマスやイワナのような魚を釣ることができる。田舎に行けば、金持ちでなくても貴族でなくても狩りができる。そして美味しいものがいっぱいある。この文化を理解したくなりました。
その後、僕は、何度も北極に行きました。エチオピアで国立公園の公園長を務めたこともあります。世界中の森の破壊も見ました。そして何度も、空手を学ぶために、日本人に会うため、美味しいお酒と焼き鳥とお鮨を食べるために日本に帰ってきました。40歳になった時、「この国が一番好きだ」と思いました。冬山もずいぶん歩きました。そして、日本の冬山はすごいなと思いました。
僕が「日本が一番好きだ」と言うと、日本人は不思議に思うようですが、日本のように美しい国はほかにはありません。北には流氷があり、南には珊瑚礁がある。海岸線を測ったら、アラスカを入れなければアメリカよりも長い。言論の自由がある。宗教の自由だけでなくて、宗教からの自由もある――これが僕にとって、すごく大きなことです。それから、僕は格闘技が好きです。エチオピアでは、人の血も、自分の血も、森を守るために流してきました。しかし、僕はみなさんと同じように戦争を憎んでいます。僕が生まれた国は、今でも戦場に物を送っています。でも日本は、あの戦争がおわってからずっと平和を守っています。僕はケルト人です。ケルトの国がゲルマン人に支配されました、アイルランドだけは残りましたが、そのアイルランドも分裂していて、いつまたテロ行為が起こるかわからない状態です。僕の故郷であるウェールズアングロサクソンに支配されています。僕はアングロサクソンでも、外国人でもなく、いまはケルト系日本人です、本当に日本が好きだから、日本国籍をとって日本人になったのです。

                                            • -

週刊朝日 2011年5月6・13日号
それでも私は日本に永住します。身も心も日本人だから 日本文学研究者 ドナルド・キーン (一部抜粋しています)
この4月26日を最後に、50年間教壇に立ち続けたコロンビア大学を去ります。4月半ばの授業には、はるか昔の教え子や友人の研究者など数百人が集まってくれました。6月には日本にある住まいに戻り、そのあと日本国籍を申請したいと思っています。
日本の震災について、米国人の関心は高い。人と会えばその話題になるし、ニューヨークのタイムズスクエアでは日本語で「がんばれ!」と書かれたメッセージを見かけます。
何よりの日本そのものが、復興への強い意志を発信し続けています。例えば、震災発生からまもない3月16日に天皇陛下がメッセージを出しました。この一節は、特に印象深い。
 <海外においては、この深い悲しみの中で、日本人が、取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています>
震災発生直後から、外国人が先を争うようにして日本を出国し、日本は地震と希望を失いかけていました。だからこそ天皇陛下は、「恥」というものを深く考える日本人の美点に言及し、励ましのメッセージとしたのではないでしょうか。
千差万別の個性を持つ日本人をひとつの論でくくることに、私は賛成しません。しかし震災に辛抱強く耐え、復興に励む特性は、東北という地における共同体意識の強さが生み出した結果ではないでしょうか。
56年前、私は松尾芭蕉と同じ目線で「奥の細道」をたどる旅をしていました。
     ・
命の復興とともに、日本が持つ歴史と伝統という財産の復興も、心から願うばかりです。
私が身も心も日本人となる決意をしたきっかけは、この1月に体調を崩し、東京で2週間入院したことでした。それまでは多忙な生活でしたから、この入院で、これからの人生をゆっくり考える時間ができました。
日本や米国の友人に「日本国籍を申請しようかと思っている」と相談すると、みんな心から賛成してくれた。友人たちの祝福の気持ちは震災後も変わりません。私自身、東京への定住に不安がなかったわけではありません。しかし、出国する外国人とまるで逆をゆく私の決断が日本への応援メッセージになれば、と強く感じています。
第2次大戦中、私は海軍の将校として日本人捕虜の通訳の仕事をしていました。
そして日本の地を踏みたいと願った私は、昭和20年12月に厚木の空港に降り立ちました。車で空港から東京の中心街へ進むに従い、目に飛び込んできたのは破壊され尽くした瓦礫の残骸だけでした。日本はもうおしまいだとしか思えなかった。しかし、それから日本は見事に復興をとげました。新東京が再建されたように、新東北も必ず生み出せるはずです。

                                            • -

クローズアップ現代 「我が愛する日本へ 〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」 2011.6.29 NHK
【キャスター】国谷裕子 【ゲスト】コロンビア大学名誉教授・日本文学研究者 ドナルド・キーン
70年近くにわたり日本文学を幅広く研究し、世界に広めた功労者、アメリカ・コロンビア大学名誉教授のドナルド・キーンさんが、東日本大震災後、日本国籍を取得し日本に永住することを表明した。きっかけは、大震災による大きな打撃に苦しむ日本人と共に生きることで、これまでの日本への感謝を心から示したいのだと言う。その決意に、多くの日本人が勇気づけられた。18歳で「源氏物語」と出会い、その後、谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫といった名だたる文豪とも親交を結び、日本文学に情熱を注ぎ続けたキーンさん。番組では、大震災後に日本各地の人たちからキーンさんに寄せられた感謝や激励の手紙を紹介しながら、日本を愛してやまないキーンさんの半生や、キーンさんをとらえて離さない日本の美しさとは何かに迫る。
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風伊藤整山田風太郎など、およそ30人の作家の日記。中でもキーンさんが共感したのは、もとプロレタリア作家で戦中に言論統制のもと、転向を余儀なくされた、高見順の日記でした。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3065
どうでもいい、じじぃの日記。
6/29、NHK クローズアップ現代 「我が愛する日本へ 〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」を観た。
こんなことを言っていた。
日本文学関係者のパーティの席で人びとに囲まれ、談笑しているドナルド・キーンさんの映像が出てきた。
89歳にして今、なお日本文学の研究で世界の最先端を走り続けるドナルド・キーンさん。まもなく母国アメリカを離れ、日本に永住、日本国籍を取るという決意を表明しています。
この春、56年間も長きに渡って教鞭をとってきたコロンビア大学を去りました。
キーンさん、「今日は私の最後の講義です。これから日本に行き、残りの人生を日本で過ごすことに決めたのです」
キーンさんのもとにはその決断を知った日本人から感謝や激励の手紙が続々と寄せられています。震災後、多くの外国人が日本を後にするなかで、キーンさんが勇気づけてくれたというのです。
達筆な日本語で書かれた手紙を見ているキーンさんの映像が出てきた。
手紙の内容、「・・・私は胸が熱くなる感動を覚えました・・・」
なぜ、キーンさんさんは人生の集大成の時をアメリカ人ではなく、日本人として生きる決意をしたのか。
浮かび上がってきたのは戦争、そして震災という極限の困難に向き合う日本人への思い。今夜はドナルド・キーンさんにとっての日本、日本人とは何かに迫ります。
我が愛する日本へ
NHKスタジオのテーブルにはドナルド・キーンさんの著作が並べられている。その前でキャスターの国谷さんが話す。
国谷さん、「『最大の楽しみは日本語に囲まれていること』、と語る89歳のドナルド・キーンさんは日本語研究の第一人者です。10年前、すでに『私はある意味、日本文化に洗脳され、感性はもう米英文学者のものではありません』、と話しています。18歳で出会った源氏物語で日本文学に魅せられ、以来70年間、日本文学、日本の文化、そして日本人とは何かについて、谷崎潤一郎三島由紀夫安部公房など名だたる作家たちと交流を深めながら、熱心に探求を続けてきました。キーンさんの最大の功績は何といっても『徒然草』や『奥の細道』など、古典から現代作家の作品まで多くの日本文学を英語に翻訳し、海外で広く読まれるようにしたことです。翻訳だけではありません。キーンさんはこの18巻にも及ぶ古事記から現代に至るまでの日本文学の歴史を書き上げています。難しいくずし文字で書かれた古典の原文を読みこみながら、たった一人で構想から25年もかけて完成させました。日本文化のすばらしさを世界に伝えることに情熱を注いできたキーンさん。今年の1月に体調を崩され、入院を余儀なくされたとき、日本人なることを心のうちで確信していたということですが、東日本大震災にみまわれた日本を目の当たりにして日本国籍を取ることを明らかにしたのです。この40年近く1年の3分の2を日本で過ごし、既に永住権も持っているキーンさんはなぜ89歳になった今、日本人になろうとしているのか、日本への旅立ちに向けて準備をされているキーンさんにお聞きしました」
       ・
ニューヨーク・コロンビア大学キャンパス内を教室に向かって歩いているドナルド・キーンさんの映像が出てきた。
日本人となり、日本で新たな暮らしを始めることが、人生最後の旅だというドナルド・キーンさん。その人生はまさに日本文化に魅せられ、日本人の内面を探求してきた日々でした。
キーンさんが初めて日本文学に触れたのは18歳の時。その前の年にはヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、世界中が重苦しい空気に包まれていました。そんな時、ニューヨークの本屋で偶然手にしたのが英訳された『源氏物語』。ページをめくると、1000年以上前に日本の王朝貴族が繰り広げた美の世界が描かれていました。その魅惑的な世界にたちまち心を奪われたキーンさんは、それまで危険な軍事国家とばかり思っていた日本の新たな一面を発見しました。
日本軍の真珠湾攻撃の映像が出てきた。
しかしその後、間もなく日米の両国は太平洋戦争へと突入。キーンさんも海軍の将校としてアッツ島や沖縄などの激戦地に赴きました。
日本語を学んでいたため、主な任務は捕虜になった日本兵への尋問、そして押収した兵士の日記の翻訳でした。キーンさんは兵士たちの日記をむさぶるように読んだといいます。
日本兵が日記に綴った文章が映像に出てきた。
死が近いことを意識した日記には自らの戦意を鼓舞するのではなく、遠い故郷を懐かしむなど、生身の心が綴られ、キーンさんの日本人へのイメージを大きく替えることになりました。
(朗読)「これらの日記は時に堪えられないほど感動的で、一兵士の最後の日々の苦悩が記録されていた。(中略) 私が本当に知り合った最初の日本人は、これらの日記の筆者だったのだ」 (ドナルド・キーン著『私と20世紀のクロニカル』より)
源氏物語に描かれたような独特の美意識を持つ日本人、軍国主義に走る好戦的日本人、そして戦いに苦悩する生身の人間としての日本人。一体日本人とは何なのか。その内面をもっと知りたいとキーンさんは戦後、日本文学にのめり込んでいったのです。
国谷さん、「源氏物語のような美しい日本と、その兵士たちのなかなか理解しがたい感情、そういうものがないまぜに混じった日本。日本人って一体どういう人たちなんだろうかと不思議だったでしょうね」
キーンさん、「戦前からも、そういう矛盾があった。一方、私は日本の浮世絵を知っていました。こういうすばらしいものがあるとか、日本の盆栽とかそういうものを見たんですが、同時に中国で侵入があって、どうして1つの国民が両方できるのかと」
国谷さん、「米英撃滅、そういうことを合言葉に戦争にひた走った日本、そして、戦争が終わったとたんに一転して熱狂的なアメリカ崇拝に日本人は変わっていった。こうした日本の極端から極端へと変わっていく日本人を丸ごと、知りたい、理解したいという気持ちが強かったんでしょうか」
キーンさん、「私にとって、特にあの頃は大きな謎だったです。私が会っている日本人は捕虜でしたが、私と冗談交わして、すぐ親しみができて、好きなことなんでも話していました、そして、そういう人たちは、一時的な友だちではなくて、戦争が終わっても付き合いが続きました。しかし、その極端から極端は大きな謎でした」
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風伊藤整山田風太郎など、およそ30人の作家の日記。
大写しの高見順の写真が映像に出てきた。
なかでもキーンさんが共感したのは、もとプロレタリア作家で戦中に言論統制のもと、転向を余儀なくされた、高見順の日記でした。
数機のB29が東京の上空から東京を爆撃している映像に出てきた。
高見順の日記には、10万人に及ぶ犠牲者を出した東京大空襲直後の日本人の姿が描かれています。
母親を疎開させるため、上野駅にやってきた高見順。そこは焼け野原となった東京から逃れようとする人々であふれていました。家を焼かれ、家族を失い、極限状態に置かれているにもかかわらず、節度と冷静さを失わないで、我慢強く順番を待ち続ける人々。それを見て高見が記した、次の一節はキーンさんの心に深い感銘を与えたといいます。
(朗読)「私の眼に、 いつか涙が湧いていた。 いとしさ、 愛情で胸がいっぱいだった。 私はこうした人々と共に生き、 共に死にたいと思った。 (中略) 何の頼るべき権力も そうして財力も持たない、 黙々と我慢している、 そして心から日本を愛し 信じている庶民の、 私もひとりだった」
       ・
国谷さん、「今回、大震災が起きて、その時はキーンさんはこちらにいらっしゃったんてすけれど、その震災を体験した日本人を、キーンさんはここにいてどのように、キーンさんの目にどのように映りましたか?」
キーンさん、「私は本当に感心しました。また高見順の日記に戻りますが、彼はお母さんと一緒に上野駅に行ったのですが、そこに大勢の人がいました。皆、静かに待っていました。自分の番を待っていたんです。そして、高見先生は、自分はこういう人たちと一緒に住みたいし、死にたいと。私も同じ気持ちでした」
国谷さん、「そういう人たちと共にいたい、寄り添いたいと」
キーンさん、「そうです。そういう気持ちです」
       ・
じじぃの感想
「大写しの高見順の写真が映像に出てきた」
高見順か。
じじぃも読んでみよ。