じじぃの「人の死にざま_644_高見・順」

高見順 - あのひと検索 SPYSEE
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オフィスシオンしきたりアカデミー 最期の言葉「高見順 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=eZvcwcN7mr4
NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ 〜ドナルド・キーン 文豪との70年〜」 2015年10月10日
【ナビゲーター】渡辺謙 【ドラマ出演】川平慈英篠井英介斉藤由貴南野陽子
「日本人と共に生き、共に死にたい」大震災の直後、日本国籍を取得したアメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーンさん93歳。
キーンさんは戦後70年に渡って、日本の文学の魅力を世界に伝え続け、「日本人よりも日本を知る男」とも呼ばれる。
番組では、ドラマとドキュメンタリーを交差させながら、その波乱に満ちた歩みを描く。最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にした。
アッツ島日本兵士が残した日記に、戦地での正月では13粒の豆を7人で分け合って祝ったことが書かれていた。
番組では、高見順伊藤整松尾芭蕉石川啄木等の日記を読み解くことで、日本人の豊かな感性が分かると言う。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586635/index.html
クローズアップ現代 「我が愛する日本へ 〜ドナルド・キーン89歳の決断〜」 2011.6.29 NHK
日本人とは何か。キーンさんはその謎を解く手がかりとして、戦中戦後の作家の日記に注目しました。永井荷風伊藤整山田風太郎など、およそ30人の作家の日記。中でもキーンさんが共感したのは、もとプロレタリア作家で戦中に言論統制のもと、転向を余儀なくされた、高見順の日記でした。
http://cgi4.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail.cgi?content_id=3065
高見順『死の淵より』 mm
http://mmaehara.blog56.fc2.com/blog-entry-1834.html
「底が突き抜けた」時代の歩き方
戦争− 敗戦にとって作家はどのような存在であったのか (一部抜粋しています)
ドナルド・キーンは『日本人の戦争−作家の日記を読む』(『文学界』09.2)の中で、敗戦後の高見順(1907-65)の日記をより多く取り上げながら、作家がどのように戦後期をくぐり抜けようとしたのか、を探ろうとしている。
高見順は、戦時の大半にわたって日本にいなかった。
開戦の時、高見は陸軍報道班員としてフランス領インドシナにいたし、昭和十七年はビルマにいた。
昭和十八年一月に帰国したが、翌年は中国へ派遣され、そこで昭和十九年の後半を過ごした。
日記には会った人物の話や観光名所の素描がふんだんに出てくるが、軍の報道班員として実際に高見が何をしたかについては多くを語っていない》と記すキーンは、《中国を訪問した際の高見の日記は、当時日本で作家たちがつけていた日記とは、まったく異なる》ことに言及している。
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昭和二十年三月十日の東京大空襲を知った《高見順は、鎌倉の安全性に危惧を抱き、母親を田舎に疎開させることにする。
上野駅は、少しでも安全なところへ逃げようと必死になっている罹災民で満ちていた。
前年いた中国で目撃した光景を思い出し、高見は日記の中で中国人と日本人を比較している。
上野駅ほど混雑していたわけでもないのに中国人は大声でわめき立て、あたりは大変な喧騒だった。
そうした喧しい中国人に比べて、おとなしく健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、(…)深い感銘を受け》ているのが、日記にみられる。
「私の眼に、いつか涙が沸いていた。
 いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。
 私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った。
 否、私も、−私は今は罹災民ではないが、こうした人々の内のひとりなのだ。
 怒声を発し得る権力を与えられていない、何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった」
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro11-668.pdf
高見順 ウィキペディアWikipedia) より
高見順は日本の小説家、詩人。
【年譜】
1907年(明治40年福井県知事阪本詝之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。
1927年(昭和2年)20歳 一高卒業、東京帝国大学文学部英文学科入学。同人雑誌「文芸交錯」創刊に参加。
1930年(昭和5年)23歳 東大卒業。研究社英和辞典臨時雇として勤務。コロムビア・レコード会社教育部に勤務。雑誌「集団」創刊に参加。 この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。
1936年(昭和11年)29歳 「人民文庫」の創刊に「日暦」同人とともに参加。コロムビア・レコード会社を退社、文筆生活に入る。
1939年(昭和14年)32歳 『如何なる星の下に』を「文芸」に発表、高い評価を受ける。
戦後は、「わが胸の底のここには」、「あるリベラリスト」などの作品で私小説風に傷つきやすい精神を掘り下げた作品を次々と発表する。また、晩年は、昭和という時代を描く「激流」「いやな感じ」「大いなる手の影」の連作を発表する。長編などでは他に「都に夜のある如く」、「生命の樹」、「今ひとたびの」などがある。
また、詩人としても活躍し、「樹木派」、「わが埋葬」、「死の淵より」(最晩年の作品、新版が講談社文芸文庫)などを発表する。永井荷風と並ぶ日記作家としても知られ、昭和史の資料ともなった「高見順日記」を著わす。(「敗戦日記 新版」が中公文庫で再刊)。回想記に「昭和文学盛衰史」がある。
また晩年に、近代文学の資料の散逸を防ぐため、日本近代文学館の建設に尽力したが、落成間近に食道がんで亡くなった。文化功労者が追贈された。勁草書房で「全集」、「全日記」が刊行された。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
高見順(たかみじゅん) (1907-1965) 58歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和38年6月18日の日記中に、56歳の高見順はこんなことを書いた。
「仕事はかどる。
 ただし胃に変調。16日からである。(中略)
 胃の左側に鈍痛。なんだろう。
 11時、外に出てスシを食べたが、なまぐさい臭いが鼻について、いつものように食えぬ」
9月16日の日記。
「食事のとき、何か食道につっかえる感じがする。この夏からのことである。
 食道ガンの初期の徴候として、本に書いてあった感じとよく似ている」
彼がすでに異様な自覚症状をおぼえ、ひそかに本を調べたことを示している。
――高見順は、戦後早々の昭和21年、約半年胃潰瘍で病臥したり、23年には肺結核のためにまた半年入院したり、26年から27年にかけて強度のノイローゼに悩まされたりしたが、最後に彼をとらえた死神の名は食道ガンであった。
そして、肉体も精神もいかにも文士らしい繊細さを持っていると見られていた高見は、この最後の死床に投ぜられて、別人のように剛毅な戦いぶりを示しはじめた。
昭和38年10月1日、そばを食べたところ、のどにつかえて吐き出したことから、3日、千葉医大附属病院で検診の結果、ついに食道ガンの診断を受けた。
しかし彼は、翌4日には新宿伊勢丹でひらかれていた日本近代文学館創立記念の「近代文学史展」を皇太子夫妻が参観されたのを、何くわぬ顔で案内している。彼はその4月から近代文学館の理事長を勤めていたのである。
10月9日中山恒明博士によって第1回手術。翌39年7月に第2回手術。
8月に、戦慄すべき詩の傑作『死の淵より』を書いた。
 死の扉
 いつ見てもしまっていた枝折戸(しおりど)が草ぼうぼうのなかに開かれている。死臭がする。
すでにガンは食道から胃に転移していて、12月に第3回手術。麻酔からさめたとき、高見は「まだ生きていたんだね」といった。
この間彼は、5億円の基金を要する「日本近代文学館」設立のために疾走した。
昭和40年3月、千葉県稲毛の放射線医学総合研究所附属病院で第4回手術を受けた。
7月13日の日記。
「・・・・眼がさめて時計を見ると3時10分。ええと、いつの3時? 部屋がうすぐらくしてあるので、昼か夜か分からぬ。それにこの頃よく夜中の3時に眼がさめる。堵系がとまっていて一昨日は錯覚した。そんなこんなで、一瞬、3時がいつの3時か分からなかった。妻に聞くと、午後の3時だという」
この日が日記を書いた最後の日であった。
8月10日ごろには、医者から「もうエンジンのないグライダーが風に舞っているようなものです」と宣告された。
目黒の駒場近代文学館の建物の起工式が行われたのは、8月16日であった。この日彼は夫人に鉛筆を握らせてもらい、メモ用紙にメッセージを書いたが、わずかに「文学と政治と」という文字が判別できるありさまであったので口述した。
そのメッセージは起工式に代読された。「はじめも終わりもありがとうございました。としかいえません。一世一代の大ぶろしきを広げっ放しで病に倒れましたが、どうか末長く頼みます」
翌17日午前3時、意識不明になり、7時ごろから手足が冷たくなり出した。それでも高見の生命力はガンと闘いつづけていた。
午後2時半ごろ、三島の龍沢寺の中川宗淵師が病室にはいってきた。彼は高見の一高時代の同級生であった。彼は巻紙に書いた訣別(けつべつ)の辞を病人の枕頭におき、しばらく高見の顔を見つめていたが、やがて「こんなものは取りましょう」と酸素吸入のパイプをはずしてしまった。
あっけにとられた医師に会釈して、宗淵師は読経を始めた。それは2時間もつづいた。
秋子夫人は記す。
「朗々とした、身にしみわたるお声だった。最後に『喝(かつ)!』と大きな声で叫ばれたとき、高見は私のほうをみて、息をひきとったのです。閉じられた双のまぶたからは、はらはらと涙があふれ両方の痩せた頬に流れ落ちました。5時32分のことでした」

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