じじぃの「昭和二十一年九月・1946・戦中派焼け跡日記!山田風太郎」

120230 BSアーカイブス「山田風太郎が見た日本 〜未公開日記が語る戦後60年〜」 動画 Youku
http://www.pideo.net/video/youku/1264a0a201e63cf2/
次回の知ってるつもり?! 日本テレビ
2001/11/11 放送 戦中派偏屈老人・山田風太郎

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山田風太郎 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A2%A8%E5%A4%AA%E9%83%8E&hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnslob&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=j7clTr7RJ-fmmAXpn7CBCg&ved=0CEgQsAQ&biw=983&bih=576
戦中派焼け跡日記 書籍
昭和21年の日本を克明に綴った傑作日記。
昭和21年。のちに山田風太郎として、さまざまな人気作品を世に送り出すことになる希代の物語作家は、そのとき、24歳の医学生だった。勉学に勤しみながらも、大量の本と映画に囲まれていた。
〈吾々はこの前途に全く光のない暗黒の惨憺たる日本に生きている。聞こえるもの飢餓の呻きと「戦争犯罪人」への罵倒と、勝利者への卑屈な追従の声ばかりだ〉
激変する情勢、占領下での厳しい暮らし、東京裁判天皇の巡幸、変節する人々の価値観……。
激動の一年を克明に綴りながら、透徹した目で何を見、何を考えていたのか。 第一級の昭和史資料が、ついに文庫化。
『戦中派虫けら日記』『戦中派不戦日記』に続く、山田風太郎の戦後日記の第一弾。
http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_9784094086348
山田風太郎 ウィキペディアWikipedia)より
山田風太郎(1922年(大正11年)1月4日 - 2001年(平成13年)7月28日)は、日本の小説家。本名は山田誠也。伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。
魔界転生』や忍法帖シリーズに代表される、奇想天外なアイデアを用いた大衆小説で知られている。『南総里見八犬伝』や『水滸伝』をはじめとした古典伝奇文学に造詣が深く、それらを咀嚼・再構成して独自の視点を加えた作品を多数執筆した。

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『戦中派焼け跡日記』 山田風太郎/著 小学館 2002年発行
昭和二十一年九月 1946 (一部抜粋しています)
十八日 (水) 曇ー雨
朝雨・涼しき曇天暗し。飯田、桜井平八郎氏、及び関宮へハガキ出す。――間もなく雨じょうじょうと降りそめ終日。午後となれば既に夕暮れのごとし。味噌なく醤油尽きぬ。塩と油のみあり。野菜配給といえば、二人大の男で三日分としてズイキ芋の茎一本。これを油いためせんにさながら空気食うがごとく、やむなく汁をウドン粉にてどろどろにし、これにこの茎を入れ、塩と油を投じて呑む。金またあやし。隣室の古清水氏この数日サツマ芋のみ喰える模様これも尽きんとするもののごとけれどすでに小麦粉三升近く貸しぬ。吾が方も残危く、次の配給いつなりや期しがたし。豊作の声のみにぎやかにして庶民の惨かくのごとく爾云(しかいう)。
内田百聞随筆『私の先生』読。
十九日 (木) 雨
午前東内科、午後馬詰眼科、夜勇太郎氏、安部氏同伴にて山形より来。話、弁当造りに一時頃まで起きている。
『小眼科学』第二編Ⅱ「涙器病」読了。
二十日 (金) 晴
午前三時、勇太郎氏山形へ帰るを送りて古清水氏と渋谷駅まで徒歩。省電一番に乗りて東京廻り上野へ、ぐたぐた居眠りばかりしている。新宿の方を廻りて帰る。朝十時まで眠る。終日安部氏と四方山(よもやま)ばなし。
善の研究』第四編「宗教」読了。
二十一日 (土) 晴
また休む。家中大掃除す。奥さんのため、町で雑誌<女性>を求む七円也。
ゴットル『経済の本質と根本概念』第二編「経済の根本概念」読。
二十二日 (日) 曇
午後久曾神来訪。安部氏千葉の友人宅へ去る。久曾神曰く、既に「Aなる売手を見つけ、Bなる買い手を見つけて、その間を周旋し、ブローカー的利得を獲んとして成功する時代は過ぎたり。今は既にAなる売手より確かに自分が買受け、品物を確かに自分が持ちてのち、時を掴(つか)んでBなる買手に売るようにせざれば成功せず」と。
経済に関する限り僕は科学的にやりたい。一家の経済の科学性は倹約の基底を有する。故に僕は倹約を実行する。しかしもちろん吝嗇(りんしょく)を行うのではない。年がよると人間は吝嗇になり易い。商売人ならそれでよかろう。金を儲けることが通俗的な意味で商人の目的だからである。しかし僕は商人ではないのだから、如何(いか)に金銭の尊さを痛感する時代が来ても、自分の目的は断じて金銭に非ずということを銘肝(めいかん)して置かなくてはならない。それは、自分の真の目的に付随して来るものであって――もし、付随して来なかったら、真の目的のためにこれを酒落(しゃらく)に振り捨てなくてはならない。
『小眼科学』Ⅲ「結膜病」読了。

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どうでもいい、じじいの日記。
山田風太郎は晩年、自分が終戦直後に書いた日記を読み返しそれを整理して『戦中派不戦日記』を書いた。
この本を書いた後、平成13(2001)年に亡くなった。享年79歳だった。
この日記が書かれた年代は昭和21(1946)年だ。
私が生まれたのは昭和21年だ。昭和21年はこんな時代だったのか、と思いながら読んだ。
私は、山田風太郎のように真摯に「死」について見つめた作家は知らない。
私にとっては、山田風太郎は人生の師であったし、今も影響を受け続けている。