じじぃの「人の死にざま_370_横溝」

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八つ墓村予告編NO.1 動画 YouTube
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桜田淳子 スターあるばむ 病院坂の首縊りの家 動画 YouTube
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横溝正史 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
横溝正史は、日本の小説家、推理作家。本名は同字で「よこみぞ まさし」。当初は筆名も同じ読みであったが、誤読した作家仲間にヨコセイと渾名(あだな)されているうちに、セイシをそのまま筆名とした(エッセイ「本名と筆名」による)。現在の兵庫県神戸市中央区東川崎町生まれ。
金田一耕助を探偵役とする一連の探偵小説で有名。また、薬剤師免許を持っていた。
【経歴】
1902年(明治35年)5月24日、兵庫県神戸市東川崎に父・宜一郎、母・波摩の三男として生まれる。父親は岡山県浅口郡(現倉敷市船穂町柳井原出身。
1924年、大阪薬学専門学校(大阪大学薬学部の前身校)卒業後、一旦薬剤師として実家の生薬屋「春秋堂」に従事していたが、1926年に江戸川乱歩の招きに応じて上京、博文館に入社する。1927年に『新青年』の編集長に就任、その後も『文芸倶楽部』、『探偵小説』等の編集長を務めながら創作や翻訳活動を継続したが、1932年に同誌が廃刊となったことにより同社を退社して専業作家となる。
1945年(昭和20年)4月より3年間、岡山県吉備郡真備町岡田(現・倉敷市真備町)に疎開第二次世界大戦終戦後、推理小説が自由に発表できるようになると本領を発揮し、本格推理小説を続々と発表する。1948年、『本陣殺人事件』により第1回日本探偵作家クラブ賞(後の日本推理作家協会賞)長編賞を受賞。
1981年(昭和56年)12月28日、結腸ガンのため死去。
【人物】
横溝は大の電車嫌いであった。電車に乗る際は必ず酒の入った水筒を首からかけ、それを飲みながら電車を乗り継いだ。時には妻とともに乗ることもあり、その際には妻は横溝の手をずっと握っていた。
ちなみに横溝は、執筆に行き詰まった際には編物をして気分転換をしていた。また、プロ野球近鉄バファローズの大ファンであった。
東京都世田谷区成城にあった横溝の書斎(1955年(昭和30年)頃建築)は、山梨県山梨市に移築され、2007年(平成19年)3月25日より「横溝正史館」として公開されている。

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『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
12月28日−横溝正史 (作家)
西村京太郎の十津川警部、内田康男の浅見光彦と作家が自分の分身のような主人公を作品の中に躍動させて謎解きをさせてゆくというのはミステリー小説の愉しみの一つだが、そのハシリこそ江戸川乱歩明智小五郎であり、横溝正史金田一耕助であったろう。
横溝文学は耽美性、怪奇性、物語性に富みおどろおどろしい人間の心に深く根ざした暗部を暴くような作品が多かった。
角川書店角川春樹が手掛けた活字、映像、音楽の三位一体で攻勢をかけるメディア戦略での横溝フェアの盛況ぶりは未だ語り草である。
『八っ墓村』、『悪魔が来たりて笛を吹く』、『獄門島』、『本陣殺人事件』などによれよれハカマの金田一が推理して真犯人を探し出す。そんな横溝ワールドを怖いもの見たさに人々は本を読み、映画を観に出かけたのだ。
とろわけ、角川映画の第1作として製作された『犬神家の一族』の文庫は年間で1200万部というとてつもない売り上げを記録したという。
金田一耕助は永遠に不滅である。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
横溝正史(よこみぞせいし) (1902-1981) 79歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和8年31歳のとき最初の喀血をして以来、横溝正史はほとんど生涯間歇的(かんけつてき)に血を喀(は)いた。のみならず、それとほぼ同時期に乗物恐怖症という神経症を得て、晩年に至るまでほとんど外出出来なかった。
その病気と、閉じ込められた生活の中から、彼以前までの、本格推理小説と日本の風土はマッチしないという定説を打破り、むしろこれを融合させることによって成功した『本陣殺人事件』『獄門島』をはじめとする膨大な「探偵小説」の金字塔を築きあげたのである。坂口安吾はこれを世界の推理作家で「ベスト・ファイブにランクしうる才能」と評した。
そして晩年、これらの作品が角川文庫に収録されるに至り、突如空前のベストセラー化する奇蹟が起り、それに鼓舞されてほとんど老廃したかに見えたその創作力もまた奇蹟的に復活し、昭和54年77歳にして『病院坂の首縊(くく)りの家』という長編を完成させた。
昭和54年11月、このとし喜寿を迎えた横溝に、山田風太郎は「先生より御長寿の作家に次の人々があります。西条八十(満78)、谷崎潤一郎(79)、幸田露伴永井荷風(80)、滝沢馬琴、山田峯太郎、野村胡堂(81)、内田百聞(82)等。まだまだお若いデス!」と、当人は激励のつもりで無遠慮なハガキを送った。
そのころ横溝は上記のような病歴を持ちながら、酒量においても、食欲においても、山田をはるかにしのぐものがあったから、山田はそんなことを書いたのである。
これに対して横溝は、「朝日新聞」の「横溝正史のてれづれ草」と題するコラムに、「私より20歳若い風ちゃんの気性をよく知っている私は。このはがきを読んでもけっして悪い気持はしなかった」と、かえってなだめたが、「しかし、これでみると私の余命は長くてあと5年、早ければ来年あたり、ポックリということも考えられる」と書いた。これを読んで狼狽した山田は、再度「82歳まででとどめたのは、ハガキがそこで尽きたからで、むろんそれ以上御長寿の方々はたくさんあります」と書き送った。
しかし横溝はさらに、「これら高名な諸先輩と比較してもらっただけでも公営の至りと感謝している。ただ惜しむらくはこれら諸先輩が、何歳まで筆を執られという天職を全うされたかわからないことである。5月24日生まれの私は現在ちょうど77歳の半ばだが、まだまだ筆を執れるというあかしに、このコラムを書いている」ノダと豪語した。
その通り彼は、その豪語にそむかず、さらに55年に至り、『悪霊島』という長編を書きあげた。
彼はまた生涯自分を苦しめた肺結核さえ全治したむね医者から太鼓判をおされたとよろこんだが、しかし彼の身体にはすでに、その病気とはべつのガン細胞が結腸に忍びよっていたのである。
昭和55年夏、彼は突然軽井沢の別荘で腹痛を訴え、腸狭窄(ちょうきょうさく)の診断を受け、手術の結果人工肛門をとりつけることのなったが、実はガンに冒(おか)されていたのであった。
それでも彼は、翌56年の6月、第一回横溝正史賞授賞式にはきげんよく出席し、一応元気に見えたが、秋ごろから入院のやむなきに至り、その年の暮12月28日午前5時19分、生涯その病身を看取(みと)り、半身というより同体ともいうべき夫人に手を握られたまま息をひきとった。
横溝正史は山田の書いた「82歳」の域に達することが出来なかったのである。

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