じじぃの「人の死にざま_692_足利・義満」

足利義満 - あのひと検索 SPYSEE
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肖像 足利歴代将軍 動画 YouTube
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足利義満
http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/yoshimitu.htm
足利義満 ウィキペディアWikipedia) より
足利義満室町時代前期の室町幕府第3代将軍である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。封号は日本国王
南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺金閣)を建立して北山文化を開花させるなど室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。
義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
鹿苑院は義満のほかに、義満が相国寺塔頭(現在の同志社大学今出川校地)に置いた京都五山の統括役所を指す場合もある。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
足利義満(あしかがよしみつ) (1358-1408) 50歳で死亡。 (一部抜粋しています)
足利3代将軍として、祖父尊氏にも成らなかった南朝の吸収合併をやってのけ、いわゆる足利時代を確立し、北山第――金閣寺はその中の一建築である――を作り、日本ではじめて巨大な七重の塔を建立し、晩年明(みん)帝から「日本国王」と呼ばれて大満悦した義満は、およそ日本の権力者として望みに得るかぎりの栄華をつくした。
応永15年3月には、北山第に後小松(ごこまつ)天皇を招いて20日にあまる歓待にあけくれた。4月27日には、天皇臨席のもとに御所で次男義嗣(よしつぐ)の元服式を行なった。彼は将軍の名こそすでに長男義持(よしもち)にゆずっていたが、義持とは腹ちがいのこの次男義嗣を偏愛した。
この元服式の2日後に彼は発病した。
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5月にはいると病勢悪化し、大々的に加持祈祷が行われたが、6日にこの気力精力ともに常人を絶した権力者はあっけなく死んだ。
朝廷では彼に太上(だじょう)天皇の尊号を贈った。生前なら義満はよろこんで受けたにちがいないが、義満はこれを拝辞した。父義満が起した未亡人の娘を妻におしつけられた過去を持つ義持は、やがて父が夢中になった対明外交を断ち、父が偏愛した弟の義嗣を殺すに至る。

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