じじぃの「人の死にざま_16_斉藤・秀」

齋藤秀雄 プロフィール - あのひと検索 SPYSEE
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「斉藤秀雄」講義録
桐朋学園大学音楽学部付属の「子どものための音楽教室広島分室」で行われた講義内容です。

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齋藤秀雄 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
齋藤秀雄(1902年5月23日-1974年9月18日)は、東京府出身の日本のチェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家である。
【生涯】
英語学者として有名な斎藤秀三郎の次男として東京築地明石町に生まれ、1906年から麹町五番町(現在の東京都千代田区一番町)に育つ。音楽に興味を示したのは12歳の頃からで、最初に演奏したのはマンドリンだった。後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している。
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終戦後、巌本や森正らの室内楽活動に手を貸す傍ら、1948年には井口基成、伊藤武雄吉田秀和らと「子供のための音楽教室」を開設。これが後の桐朋学園の一連の音楽系学科開設につながっていく。齋藤は同学園にて弦楽部門を担当する。1952年には桐朋女子高校音楽科主任、1961年から1972年まで桐朋学園大学教授を歴任。1955年には海外に長期滞在することとなった井口の留守を預かる形で桐朋学園短期大学学長に就任。1964年には桐朋学園弦楽合奏団を結成し、アメリカ公演を行い、成功を収める。1967年には日本指揮者協会会長に就任。その後は新日本フィルハーモニー交響楽団顧問を務めた後、癌のため1974年9月18日に東京都中央区明石町の聖路加国際病院で亡くなった。
没後、齋藤の教え子が主体となってサイトウ・キネン・オーケストラサイトウ・キネン・フェスティバル松本が創設され、2000年に亡くなった齋藤の夫人・齋藤秀子の遺言により財団法人ソニー音楽芸術振興会によって2002年に「齋藤秀雄メモリアル基金賞」が創設されるなど、齋藤に因む賞やイベントが多く行われている。
【指揮法教程】
この本は1956年に音楽之友社から出版後瞬く間に売れ、レナード・バーンスタインから賞賛されるなど、斎藤の遺した最も大きな仕事の一つである。
弟子の伊吹新一は、「指揮の運動をメソッド化して教える方法は、斎藤秀三郎の「斎藤英和中辞典」と多くの近似点を持っていること。またこの本に書かれたことは斎藤の教えそのものではなく、一般向けに内容を平易化しているために誤った理解がなされていること」を力説している。
また、斎藤の没後、小澤征爾など斎藤のもとで指導を受けた門下生が編集委員となり、英訳版である“ THE SAITO CONDUCTING METHOD ”が音楽之友社より出版された。

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プレミアム8<人物>100年インタビュー小澤征爾西洋音楽と格闘した半世紀〜」 NHK BS Hi
放送日: 2009年6月25日 インタビュー・討論 【聞き手】有働由美子アナウンサー
時代を切り拓く人物の夢に迫る100年インタビュー。今回のゲストはウィーン国立歌劇場音楽監督 小澤征爾。西欧音楽との格闘の軌跡を音楽の本場ウィーンで聞く。
時代を切り開く各界の第一人者に人生哲学や未来へのメッセージを聞く「100年インタビュー」。今回は、ウィーン国立歌劇場音楽監督を務めている指揮者・小澤征爾(73歳)に、音楽の本場ウィーンで聞く。「日本人がどこまで西洋音楽を理解できるかの実験だ」と語りながら 世界各地で活躍したきた小澤は、どう音楽と格闘してきたのか、どこまで夢は達成できたのかに迫る。
小澤征爾さんが師である斉藤秀雄さんのことを語っています。
http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10002200090906290030163/
小澤征爾大Ж江健三郎 同じ年に生まれて 音楽、文学が僕らをつくった』 中央公論新社 2001年発行
若い頃のこと、そして今、僕らが考えること (一部抜粋しています)
小澤 俗っぽくいえば、サイトウ・キネン・オーケストラというのは、どんな後ろのほうに座ってる人でも、もうまったくインヴォルヴメントね、日本語で言うと・・・・。なんだっけ?
大江 引き込まれている。参加しているというか、個で責任をとりつつ、仲間になっている。一緒にやっている。
小澤 そうそう。オーケストラは人間がたくさんいるから、後ろのほうに座ると、何となく自分は遠くにいるみたいな気持ちがすることが多いんです。とくにプロの場合は。それが、まったく前にいるのとおんなじ気持でおんなじインヴォルヴメントでやっている。もう一つ音楽的に言いますと、斎藤先生という人は、西洋に自分で言って苦労して勉強して帰ってきて、西洋音楽、もっとつきつめて言えば音楽とは何かというときに、やっぱり表現だと考えたわけです。音楽というのは、音をきれいに鳴らしたり、いいハーモニーを鳴らすだけじゃなくて、表現をして何かを、さっき、あなた、コミュニケーションといったけど。
大江 伝えることね。
小澤 何かを人に伝えなければいけない。表現しなきゃいけない。その表現するためにはどういうことが必要かということをすごく研究した人なの。
細かくいうと、たとえば音楽のフレーズと簡単に言いますけど、もっと極端に言うとディレクションといって、メロディーが始まったときに、その音楽がどこへ行くか、いま弾いている音はどこに向かって弾くか、あるいはどこに向かって到達するようにしているか、その音のディレクション(方向)、あるいはフレーズのディレクション。たとえばどういうアウフタクト、要するに、拍子の前、一が一拍としますと、四、一とか、三拍子の場合は三、一とか四と一とか、最初に一から始まれば、青竹割ったみたいにはっきりしているんですけど、たいていの音楽は、その前に何かつくわけですね。それをドイツ語ではアウフタクト、英語ではアップビート。日本で何ていうんだっけなあ。
それを、弦の場合は、どのくらい弓を使うか、弓の長さはどれくらいか、あるいはどのくらいの速さで弾くか、どのくらいのプレッシャーで、弓を下につけるか、彼はそういう具体的なことまで研究した人なんです。それでディレクションを教えた。あるいはアウフタクトの次にくるのは、どこでそのフレーズが終わるのかを、ちゃんとお客さんに聴かせろということです。要するに、聴いている人にどうやって分からすかという、その表現のしかたを具体的に教えた人なんですよ。
われわれはそれで育っているもんで、世界じゅうどこへ行ってもその考え方がいつもどこかにあるんですよ。表現しなきゃいけないこと、あるいはディレクションというのかな、方向というのかな、音の方向かな・・・・。
大江 日本語にすると、方向づけるということもある。郵便の宛名もディレクションで、どこに届けるか、ということでもあるな。
小澤 僕はいま12歳の男の子に、初めて室内楽を教えているの。ニューヨークから一人で来ているんですよ。その子は、音は全部弾けるんだけど、ディレクションがないんです。意欲的なディレクションが。なぜかというと、彼はそれを使ってだれかに聴かせようとしていないから。音楽というのは表現するものだという根本的なものがまだ子供で、なってないし、自分だけ満足してればいいから・・・・。
それをサイトウ・キネンのメンバーは、みんな子供のときに教わっているから、僕がそれを要求すると、斎藤先生の顔なんか見たことのない若い人とでも、そういうものだと思って弾くから、非常に表現的に訴えが強いというのかな、そういう音楽ができてくる。だからチャイコフスキーとかブラームスの場合、とくに表れてくるのは、そういう深みとか重みとか、あるいは音楽の流れが非常に大事で、色だけじゃない。たとえばドビュッシーはあんまりそういうこと関係ないかもしれない。だけども、それに関係あるベートーヴェンなんかは、ゼクヴィェンツ、つまり繰り返しですね。それは繰り返していってどこに行くかと。タタタト、タタタト、タタタト、タトト、タタト、タタタタ、タタタタタタっていきますよね。そのディレクションがどこまで行くかというようなことは、斎藤先生がうんと意識的に教えた。東洋人にはそれがない、東洋の芸術には、そういう息の長さがないというわけです。要するに、ディレクションというのは息が長くなければできないんですね。日本人の場合は淡泊になりやすいから、それを教えなきゃいかんというのが斎藤先生の、教え方だったんで。
大江 それは本当に人間に根本的な生き方を、その人のそれまでのやり方と違った生き方を、教えることですね。

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斉藤秀雄の言葉
「型に入れ そして 型から出よ」