じじぃの「人の死にざま_11_石川・啄木」

石川啄木 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%95%84%E6%9C%A8/82585/
石川啄木「一握の砂」より「砂山の・・・」 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=l6PJLSVaR1c
キーン・ドナルド  90歳を生きる  石川啄木を語る 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=71IAUoWY2cw
石川啄木函館記念館・啄木小公園 - 地域情報動画サイト 街ログ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=qFq6i5paVE0
NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ 〜ドナルド・キーン 文豪との70年〜」 2015年10月10日
【ナビゲーター】渡辺謙 【ドラマ出演】川平慈英篠井英介斉藤由貴南野陽子
「日本人と共に生き、共に死にたい」大震災の直後、日本国籍を取得したアメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーンさん93歳。
キーンさんは戦後70年に渡って、日本の文学の魅力を世界に伝え続け、「日本人よりも日本を知る男」とも呼ばれる。
番組では、ドラマとドキュメンタリーを交差させながら、その波乱に満ちた歩みを描く。最初の玉砕となったアッツ島の戦い(1943年5月)に参加し、手りゅう弾を胸で破裂させて自決した日本兵の遺体を目にした。
アッツ島日本兵士が残した日記に、戦地での正月では13粒の豆を7人で分け合って祝ったことが書かれていた。
石川啄木が残した日記や手紙を読み進めたが、26歳で亡くなった若者がなぜ気高い思想と芸術を獲得できたのか、という疑問は解けないままだった。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586635/index.html
『追悼の達人』 嵐山光三郎著 新潮社
石川啄木
新聞記者の友情 (一部抜粋しています)
啄木が死んだのは明治45年4月13日である。父と妻節子と若山牧水に見守られて寂しく死んだ。26歳であった。そのころの啄木は変形歌の歌人として一部の人に注目されていたが、世間に認知される位置にはいない。朝日新聞の一校正部員にすぎなかった。啄木自身も進む道に悩んでいた。
啄木の詩歌は与謝野鉄幹主宰の『明星』や、その後身『スバル』のほか、いくつかの新聞に掲載されたものの注目度は低く、死の2年前に刊行された歌集『一握の砂』もさして評判にならなかった。
啄木が認められたのは、死後8年目に新潮社より三巻の全集が刊行されてからである。全集刊行にあたっては、哀果土岐善磨の尽力があった。草野心平がいなければ宮沢賢治が世に出なかったのと同じく、哀果がいなければ啄木も無名の一歌人として葬り去られるところであった。歴代の詩人、歌人のなかには、よき理解者がいないばかりに忘れ去られた人がかなりいる。とくに啄木の場合は自分本位のわがままな性格であり、友人から借金をふみ倒し、女にだらしなく、尊大で偏狭な性格で嘘つきだったから、仲間に信用されず、嫌われ者であった。
    ・
啄木にとっては哀果との交際が晩年の1年余であったということが幸いした。金田一京助のように長いつきあいのなれば、啄木は哀果にも金をたかって愛想をつかされたにちがいない。啄木は、晶子・鉄幹はじめ新詩社の同人である平野万里や吉井勇からも毛嫌いされていた。万里とは『スバル』編集方針をめぐって感情的に対立した。晶子の啄木哀悼歌に、
  ありし時万里と君のあらそひを手をうちて見きよこしまもなく
とあるのはそのことである。
昭和9年、鉄幹は雑誌『国語と国文学』のインタビュー(聞き手は藤田徳太郎と吉田精一)に答えて、「(啄木が)世にもてはやされるのは嬉しいが生誕50年のお祭り騒ぎをするのはどうかと思う」「人物としての柄は平野(万里)君とは比べものにならね。私には、今日のような啄木の流行は解することが出来ない」と切って捨てている。啄木という雅号は鉄幹の命名によるものだが、啄木は名づけ親の鉄幹にまで嫌われていた。
啄木への追悼は、詩誌の同人よりも、むしろ新聞社の友人によってなされた。哀果が在籍した読売新聞は、写真入りで切々たる死亡記事を掲載した。
「・・・・氏は岩手県岩手郡渋民村に生れ盛岡中学に学び当時雑誌『明星』の同人として文名あり、後上京して詩集『あこがれ』を出版し、雑誌『小天地』を主宰し・・・・(中略)『一握の砂』以後の歌作は近く出版さるる筈・・・・」
この記事を書いたのは哀果で、哀果は、『一握の砂』以後の出版まで予告宣伝してしまった。ここには新聞社勤の同士の友情がある。

                          • -

一握の砂 石川啄木 原文です。
我を愛する歌(一)
東海の 小島の磯の 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる
頬につたふ なみだのごはず 一握の 砂を示しし 人を忘れず
大海に むかひて一人 七八日 泣きなむとすと 家を出でにき
いたく錆びし ピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて 掘りてありしに
ひと夜さに 嵐来りて 築きたる この砂山は 何の墓ぞも
砂山の 砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠く おもひ出づる日
砂山の 裾によこたはる 流木に あたり見まはし 物言ひてみる
いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ
しつとりと なみだを吸へる 砂の玉 なみだは重き ものにしあるかな
大といふ 字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて 帰り来れり
目さまして 猶起き出でぬ 児の癖は かなしき癖ぞ 母よ咎むな
ひと塊の 土に涎し 泣く母の 肖顔つくりぬ かなしくもあるか
燈影なき 室に我あり 父と母 壁のなかより 杖つきて出づ
たはむれに 母を背負ひて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
飄然と 家を出でては 飄然と 帰りし癖よ 友はわらへど
我を愛する歌(二)
ふるさとの 父の咳する 度に斯く 咳の出づるや 病めばはかなし
わが泣くを 少女等きかば 病犬の 月に吠ゆるに 似たりといふらむ
何処やらむ かすかに虫の なくごとき こころ細さを 今日もおぼゆる
いと暗き 穴に心を 吸はれゆく ごとく思ひて つかれて眠る
こころよく 我にはたらく 仕事あれ それを仕遂げて 死なむと思ふ
こみ合へる 電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの 我のいとしさ
浅草の 夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来し さびしき心
愛犬の 耳斬りてみぬ あはれこれも 物に倦みたる 心にかあらむ
鏡とり 能ふかぎりの さまざまの 顔をしてみぬ 泣き飽きし時
なみだなみだ 不思議なるかな それをもて 洗へば心 戯けたくなれり
呆れたる 母の言葉に 気がつけば 茶碗を箸もて 敲きてありき
草に臥て おもふことなし わが額に 糞して鳥は 空に遊べり
わが髭の 下向く癖が いきどほろし このごろ憎き 男に似たれば
森の奥より 銃声聞ゆ あはれあはれ 自ら死ぬる 音のよろしさ
大木の 幹に耳あて 小半日 堅き皮をば むしりてありき
「さばかりの 事に死ぬるや」「さばかりの 事に生くるや」 止せ止せ問答
我を愛する歌(三)
まれにある この平なる 心には 時計の鳴るも おもしろく聴く
ふと深き 怖れを覚え ぢつとして やがて静かに 臍をまさぐる
高山の いただきに登り なにがなしに 帽子をふりて 下り来しかな
何処やらに 沢山の人が あらそひて 鬮引くごとし われも引きたし
怒る時 かならずひとつ 鉢を割り 九百九十九割りて 死なまし
いつも逢ふ 電車の中の 小男の 稜ある眼 このごろ気になる
鏡屋の 前に来てふと 驚きぬ 見すぼらしげに 歩むものかも
何となく 汽車に乗りたく 思ひしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし
空家に 入り煙草のみたる ことありき あはれただ一人 居たきばかりに
何がなしに さびしくなれば 出てあるく 男となりて 三月にもなれり
やはらかに 積れる雪に 熱てる頬を 埋むるごとき 恋してみたし
かなしきは 飽くなき利己の 一念を 持てあましたる 男にありけり
手も足も 室いつぱいに 投げ出して やがて静かに 起きかへるかな
百年の 長き眠りの 覚めしごと あくびしてまし 思ふことなしに
腕拱みて このごろ思ふ 大いなる敵 目の前に 躍り出でよと
手が白く 且つ大なりき 非凡なる 人といはるる 男に会ひしに

                          • -

石川啄木記念館 [公式サイト]
http://www.takuboku.com/