じじぃの「歴史・思想_243_中国古代史・三国志と邪馬台国」

わかりやすい歴史【邪馬台国

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=NCHu6PErzzA

魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書) 2012/5 渡邉義浩 (著) Amazon

考古学調査と並び、邪馬台国論争の鍵を握るのが、「魏志倭人伝」(『三国志東夷伝倭人の条)である。
だが、『三国志』の世界観を理解せずに読み進めても、実像は遠のくばかりだ。なぜ倭人は入れ墨をしているのか、なぜ邪馬台国は中国の東南海上に描かれたのか、畿内と九州どちらにあったのか。『三国志』研究の第一人者が当時の国際情勢を踏まえて検証し、真の邪馬台国像に迫る。「魏志倭人伝」の全文と詳細な訳注を収録。

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三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

4.邪馬台国 より

日本に対する最古のまとまった記録として尊重される「魏志倭人伝」とは、『三国志』巻三十 東夷伝 倭人の条のことです。
魏志倭人伝」の読み方をめぐる論争で、わたしが最も気になったのは、国々の存在を記す距離や方向を現実の日本列島に当てはめ、ゆがめて解釈していることでした。
日本に関する記録であっても、日本のために書かれた記録ではないので、日本に都合よく読むのではなく、『三国志』の文脈の中で読むべきなのです。
そもそも中国の正史のなかで、異民族に関する記録として日本の記録が最も多い史書は『三国志』です。『三国志』は日本を特別視して記録を残しているのです。
なぜ、特別視したのか、そこから考えなければ、邪馬台国の真実に近づくことはできないでしょう。
特別視は、陳寿が仕えた西晋の建国者である司馬炎の祖父、司馬懿遼東半島を征服した結果として、朝貢した国が倭国であるという理由によります。朝貢とは、夷狄の君主が、中華の文徳に教化されて臣下となり、貢ぎ物を捧げて世界の支配者である中華の皇帝のもと、地域を支配する国王として封建されるために使者を派遣することです。
陳寿は、倭国朝貢させた司馬懿を高く評価するため、あらゆる知識を動員して倭国を好意的に描いているのです。
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卑弥呼の来貢は司馬懿の功績、これが司馬懿の孫司馬炎が建国した西晋の公式見解なのです。日本に関する最初の本格的な記録である「魏志倭人伝」は、諸葛亮の陣没による司馬懿の台頭と遼東遠征を契機に生まれたのです。

虚構と真実

邪馬台国は、司馬懿朝貢させた国です。その重要性は、曹真が朝貢させた大月氏国(イラン系遊牧民の国)により上でなければなりません。この理念が、邪馬台国を会稽郡東冶県の東方海上という、孫呉の背後に位置づけさせました。
曹操は、赤壁の戦いという水戦で孫権に敗れています。それにもかかわらず、西晋孫呉を滅ぼしたとき、孫呉海上に逃れられませんでした。なぜなら、司馬懿朝貢させた邪馬台国がその背後に存在するためであった、としたいのです。理念を強く帯びた記述と、事実の記載の混在するところが「魏志倭人伝」の読みにくさの理由なのです。
たとえば、入墨(鯨面・文身)から衣類・髪型・織物に始まり、鳥獣・兵器・衣食・葬儀・持衰(じさい、航海の安全を祈る者)・占い・飲食・寿命・婚姻に至る倭の地誌が記される部分のうち、持衰は他の漢籍に記載がありません。これにより、報告書などに基づいた事実の記載であることがわかります。
これに対して、倭人の習俗として有名な鯨面・文身(顔の入れ墨と身体の入れ墨)は、儒教経典に基づく裏面の記述と考えられます。
当時の世界観を形成した経典の1つ『礼記』王制篇には、東方の異民族である「夷」は身体に、南方の異民族である「蛮(ばん)」は額に、それぞれ入れ墨をしているとしています。倭は、孫呉の背後、つまり中国の東南に位置する異民族であるため、身体(東)と額(南)に入れ墨をしているべきなのです。
ちなみに『三国志東夷伝馬韓の条」には、男子が身体に入れ墨をしていると記述されています。韓族は東夷です。したがって、入れ墨は身体だけにあるべきなのです。
また倭は、7万余戸邪馬台国をはじめ、記載された国々を合わせると約15万戸から成る大国と記されています。遼東半島から朝鮮北部を支配した公孫氏が滅亡した際、接収された戸が4万であったことを考えますと、いかに大国として描かれているのかを理解できるでしょう。倭が、「戸十万」とされる大月氏国を上回る大国であることを示す必要性から生まれた理念の記述だからなのです。
さらに『後漢書』西域伝によれば、大月氏国は洛陽から1万6370里の彼方にありました。儒教理念は、異民族が遠くから朝貢すればするほど、中華の君主の徳が高いとします。
邪馬台国が、洛陽から1万7000里(洛陽から帯方郡が5000里、帯方郡から邪馬台国が1万2000里)の彼方にあるとされている理由です。
魏志倭人伝』の記述は、すべてが事実に基づくわけではありません。そこには、卑弥呼が使者を派遣した当時の曹魏の内政・外交や史家の世界観に起因する、多くの偏向(ゆがんだ記述)が含まれているのです。
とはいえ倭人伝には、3世紀の日本の現実を直接見聞きした使者の報告書に基づく貴重な記述も含まれます。邪馬台国から曹魏への朝貢は、約10年間で4回にも及びます。平均すると約18年に1回であった遣唐使のころに比べても、日本と中国が密接な関係を持っていたことがわかります。
曹魏と倭との関係は、諸葛亮の陣没により生まれました。諸葛亮卑弥呼、互いにその存在を知ることがなかった同時代人は、陳寿の『三国志』によって結びついているのです。われわれ日本人は、「三国志」を通じて、古くから中国と密接な関わりを持っているのです。

じじぃの「サステナブル(持続可能な開発目標)・武漢封鎖後見られた現象は?池上彰のニュース検定」

池上彰のニュース検定」 2020年6月29日 ''ポストコロナ''の経済 池上解説(サステナブル)

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=alnkdAv2GLI

大気中の二酸化炭素(CO2)濃度の変化

サステナブルとは?

SDGsに向けた世界の取組み|サステナブルな社会へ from Benesse(よく生きる)
SDGsエス・ディー・ジーズ)とは、Sustainable Development Goals
「持続可能な開発目標」のことです。
https://www.benesse.co.jp/brand/about/about_sustainability/

池上彰のニュース検定

2020年6月29日 テレビ朝日 【グッド!モーニング】
きょうのキーワード 「サステナブル」。

問題 「中国・武漢封鎖後見られた現象は?」

・大気がきれいに
・黄砂が増えた
地震が減った
正解 大気がきれいに
池上彰さん解説】
 「NASAが撮影した中国・武漢衛星写真をご覧ください。新型コロナウイルスの発生源と見られている武漢で大規模封鎖が行われた後大気がきれになっています。イタリアのベニス(ベネチア)では運河の水の透明度があがりました。人の経済活動によって地球の環境がいかに変わるかがわかりやすく示された。注目された「サステナブル」。サステナブルSDGsというのは持続可能なという意味の言葉で、自然環境などに悪影響を与えず経済活動を維持できる社会を目指すというもの。2015年に国連も17の項目を採択、各国に具体的な解決策を求めている。大気汚染、水質汚染が深刻。Tシャツは世界で毎年20億枚販売。綿花の栽培に多くの水を使うため1枚作るのに2.7tもの水が必要。海外の工場では製造工程で化学物質や汚水が川や地下水に流出。水不足と水質汚染の原因にもなっています」

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池上彰のニュース検定

2020年6月30日 テレビ朝日 【グッド!モーニング】
きょうのキーワード 「サステナブルな事業」。

問題 「ポール・マッカートニーの次女の職業は?」

・歌手
・国連職員
・ザイナー
正解 デザイナー
池上彰さん解説】
 「コロナショックを契機にサステナブル(持続可能な)事業に注目が集まっています。ステラ・マッカートニーはビートルズポール・マッカートニーの次女です。ステラさんはファッションデザイナー。スウェーデンの森林の木が原料のビスコースという素材で出来たドレスをデザイン。森林を維持、管理し持続可能な資源にしている。動物の革や毛皮などは一切使わないと宣言。バッグの裏地にはリサイクルしたペットボトルが使われている、表地はフェイクレザー。ステラさんのオフィスの壁紙は使用済みの紙をリサイクルしたもの。マネキンの素材は自然分解するサトウキビを使用しているということです」

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『ヒトはなぜ争うのか―進化と遺伝子から考える』

若原正己/著 新日本出版社 2016年発行

ローマ・クラブと持続可能性 より

最近でもさまざまな分野で「持続可能性」という言葉が使われている。この言葉は、1972年に行なわれたローマ・クラブによる報告者が最初だ。
そのローマ・クラブの報告書『成長の限界』では、今後「世界人口と工業投資が幾何級数的成長を続けると地球上の天然資源は枯渇し、環境汚染は再生の許容範囲を超え、成長は限界に達する」ことが、多様なデータに基づいて鮮明に示された。このレポートによって、人類の成長には地球という器の限界があることが強く認識され、経済活動を含めた地球規模での人間活動が維持・発展することができないと指摘された。そこで、今後「持続可能な開発」の可能性がありうるかが議論されるようになった。
石炭や石油などの化石燃料は有限な資源だし、今や大々的に開発されているシェールガスやメタン・ハイドレードも無限にはない。原子力燃料もいずれ枯渇するだろう。こうした有限の資源に依存した人類社会はいずれ行き詰まる。それに代わる代替エネルギーの開発が間に合うかどうかが焦眉の課題だ。太陽光、風力、水力、潮力などすべての自然エネルギーを生かす科学技術の力を発揮することが大事だ。
ローマ・クラブはさまざまな提言をしている。具体的な実例をあげて、現存技術を使った省エネを有機的に組み合わせて実施することで、人類の現在の生活の質の低下をさせることなくエネルギーと資源の消費を5分の1にすることが可能であることを説明している。しかし、これまでにその実現を阻んで来たものも数多くある。代表的なものは、先進国を基盤とする国際金融資本に支配された大企業の既得権益と、経済活動への一切の制限や民主的な規制を認めない新自由主義の考え方だ。
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特に、地球上に生育できる人口をどうやってまかなうのかが1番の問題だ。

地球サミットで宣言された「持続可能な発展」は、同時に採択された「気候変動枠組(地球温暖化防止)条約」および「生物多様性条約」と併せて考えることが必要だ。

じじぃの「歴史・思想_242_中国古代史・儒教の国教化をめぐる諸説」

三国志の人々の精神に影響を与えた論語(ろんご)って何?

はじめての三国志 - Part 2
三国志の主人公達も、論語を実践した
三国志の主人公達は、その殆どが儒教を学んだ人々です。
ですから、物語を見ていくと、例えば劉備は仁を実践して民を大事にし、孔明は、義と礼を重んじて、刑罰を厳しくしつつも、正しい判断を降せるように努力をし蜀の民に慕われました。
忠は、関羽(かんう)をはじめとして、孔明も、ホウ徳も関羽も多くの名将と呼ばれる人々が持っている特徴です。
孝は父を殺された曹操陶謙への激しい復讐心や、曹操を救い、自らは殺されてしまった曹昂にも当てはまります。
https://hajimete-sangokushi.com/2015/11/05/post-6983/2/#i-3

三國政権の構造と「名士」2009/1 渡邉義浩 (著) Amazon

この研究書は、後漢から三國時代にかけて、貴族の前身となる「名士」という独自階層の特質を明らかにし、「名士」が三國政権にどのように関わり、またどのように貴族へと変貌を遂げるのかを、現存する歴史資料と、膨大な学術論文を取り上げて論証しています。
特に、蜀漢政権の構造から浮き彫りになった劉備諸葛亮の関係や、曹操の国家支配理念が後漢の「寛治」から、「猛政」へと移行したことにより、「名士」の支持を得たことは必見です。また、本書後半の付表には、参考文献のリストが整理されていたり、三國政権の中枢要員を、政権の前期・中期・後期により区分けし、人目で出身地や、名声がわかるようになっています。只、あくまで研究書なので、漢文やある程度の三国時代の予備知識が無ければ厳しいです。初心者は、先ずはナツメ社の図解雑学『三国志』を読むことをおススメ致します。

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三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

儒教の国教化をめぐる諸説

世界史の教科書では、前漢武帝期に儒教が国教化されたと『漢書』に従って書かれていましたが、それに敢然と立ち向かっている方々がいました。一人は先輩にあたる平井正士先生、もう一人は師と親しい福井重雅先生でした。
おふたちの努力もあり、「儒教の国教化」の時期については、定説であった前漢武帝期のほかに、①前漢元帝期・②王莽期・③光武帝期・④章帝期が挙げられていました。

後漢儒教国家」の成立

光武帝は、讖緯(しんい)書の選別と経義の整備を行いながら、公孫述(こうそんじゅつ)を打倒して中国を統一すると、高帝(高祖劉邦)を配食(天とともに祭祀)する増祀を行うなど、祭祀の改変を続けました。
板野説(③光武帝期を「儒教の国教化」の時期とする板野長八説)の重視する図讖の宣布は、経義より先に整備が完了した讖緯書を公開したものと考えてよいでしょう。第2代明帝は、さらに祭祀の改変を継続しています。
こうした後漢の国制に則した経義の整備は、明帝期の改革を踏まえて、第3代の章帝が主宰する白虎観(びゃくこかん)会議にまで持ち越されました。
その結果、思想内容としての体制儒教の整備は、後漢の④章帝期に完成します。このころには、「儒教の国教化」の主要な指標も満たされています。わたしは、博士論文において、「儒教の国教化」の時期を④章帝期に求めることにしました。
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後漢儒教の話が続き、だいぶ三国志からは離れてしまいました。
ここまでお付き合いいただいたのは、「三国志」の時代は184年の黄巾の乱から始まり、後漢曹丕に滅ぼされる220年までは、後漢儒教国家」が続いていたからです。すなわち曹操は、儒教が国教であった時代しか生きておらず、荀彧(ジュンイク)も諸葛亮儒教を勉強して知識人となったのです。
したがって、わたしは「儒教がわからなければ三国時代を正確に分析できない」と考えています。
このため、わたしの儒教研究は今に至るまで続いており、博士論文の継承としては、後漢儒教国家」における儒教の展開を明らかにした『後漢における「儒教国家」の成立』(汲古書院、2009年)を出版しました。

寛治から猛政へ

曹操の生きた時代が後漢儒教国家」であったことを把握していれば、曹操による法律と刑罰の重視は、法家思想によるとは簡単に規定できないはずです。
ところが、中国では文化大革命と批林批孔運動(毛沢東の地位を狙ったとされる林彪(りんぴょう)と封建思想を確立した孔子を批判して革命を継続する運動)を背景に、曹操を法家としていました。
曹操による法律と刑罰の重視は、突然始まったものではありません。曹操が自らの理想とした後漢の大宰相橋玄(きょうげん)も。法律と刑罰を重視していました。それは、後漢の寛治(かんち)と呼ばれる統治方法への反発でした。
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曹操の猛政を支持した荀彧は、さらに一歩進んだ肉刑復活論者でした。

じじぃの「膨張する中国・戦狼外交の脅威・香港一国二制度の終えん!報道1930」

香港0524 「国家安全法」反対デモ

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kbvkCVh4l3w

香港国家安全法が成立 (2020/06/30)

報道1930

2020年7月1日 BS-TBS
【キャスター】高畑百合子、松原耕二 【コメンテーター】堤伸輔 【ゲスト】佐藤正久(前外務副大臣)、興梠一郎(神田外語大学教授) 【中継】福岡静哉(毎日新聞 台北支局)
膨張する中国「戦狼外交」の脅威 香港「国家安全法」施行“1国2制度崩壊”へ 中国“強行外交”の背景に“新型コロナ” 尖閣諸島や南沙 エスカレートする中国の脅威

膨張する中国「戦狼外交」の脅威

●香港行政長官「歴史的一歩」 「国家安全維持法」初の逮捕者
国家安全維持法が施行され一夜明けた香港では英国から中国への返還23年を祝う式典が行われた。
林鄭月娥行政長官は法律について「歴史的な一歩を踏み出した」と述べた。
香港での反政府的なデモを取り締まる「香港国家案縁維持法」は中国の全人代常務委員会で昨日可決・成立し、香港で即日施行された。
香港警察は今日、国家安全維持法に対する抗議集会で「香港独立」と書かれた旗を所持していた男性を逮捕したと発表した。
国家安全法による初の逮捕者。
国家安全法をめぐっては今日午後、香港島中心部で抗議集会が行われた。
警察は中止するよう警告したが一部の参加者はデモ行進を強行した。
警察は国家安全法違反や違法集会などの疑いでデモの参加者ら30人以上を逮捕したと発表した。
中国・北京では中国政府が記者会見し、「『一国二制度』を堅持し、国家の主権・安全を維持するためのものだ」と立法の意義をアピールした。
●最高刑は終身刑 “国安法”とは
香港が英国から返還されて23年が経った。
国家安全維持法が施行されたことについて。
興梠一郎、「学校、メディア、NGO、インターネットまで全て監視しているという法律」

国家安全法は「反分裂法」の香港版

9条 ・・・国家の安全を維持するため、香港政府は学校、団体、マスメディア、インターネットに対して宣伝・指導・監視と管理の体制強化など必要な措置を取るべき
21条・・・いかなる人が第20条に違反する行為を他人に実行させるため、扇動・ほう助・教唆または犯罪行為の為の資金等を提供することは犯罪になる
38条・・・永住権を持たない人が香港にいなくても香港特別行政区に対し、本法案に記載された犯罪行為を行った場合、本法案は適用される
●緊急取材 市民の抗議に警察が
福岡静哉が20時の香港の様子を報道。
香港のショッピングモールでは国家安全維持法に対する抗議集会が行われていた。
地面には「天滅中共中国共産党滅びろ)」の文字が。
道路は警官が封鎖し、そのうちの1人が青い旗を掲げている。
そこに書かれていたのは「警察からの警告・この集会・デモは違法・直ちに解散せよ・さもなくば武力行使も辞さない」。
既に香港警察は「香港獨立(香港独立)」と書かれた旗を所持していたとして国家安全維持法違反の疑いで、旗を所持していた男性を逮捕したと発表。
昨夜施行されたばかりの法案による逮捕者は少なくとも30人。
数は増え続けているとみられる。
一国二制度の終えんとも言える今回の法律に香港社会は委縮。
天安門事件の歴史を伝える記念館はもう閉館するのではと言われている。
開館を続けていること自体が中央政府転覆の試みとみなされる恐れがある。
雨傘運動を主導した黄之鋒(ジョシュア・ウォン)は米国の公聴会に出席し、抗議活動に対する支持を呼びかけた。
国際社会と協力し活動を続け、民主の女神とも呼ばれる周庭(しゅうてい 、アグネス・チョウ)はツイッターに「デモシストから脱退する」と投稿した。
周庭とはその後連絡が取れていない。
●緊急取材 一国二制度の終えんで“萎縮”も
堤伸輔、「一国二制度が一度は終わってしまったと言わざるを得ないのかもしれない。永久に終わるのか、何らかで戻るのかは中国本土の体制次第だと思う。しばらくは民主化運動は委縮せざるを得ない。今回死刑だけは盛り込まれなかった。今回中国側が守ったのはそこだけ。香港のかなりの人が国外移住を考えている」

興梠一郎、「尖閣諸島南シナ海、台湾、香港、一連の動きが連動している。習近平政権は共産党を維持することが最大の関心事」

佐藤正久、「国家安全法が香港基本法の付属文書で位置づけられたので、香港基本法を支持するということは、国家安全維持法を支持するということ。今回相当抑止効果はある」
●“風刺”長寿番組も打ち切り”
香港のテレビ番組も影響を受けている。
RTHK番組スタッフ労働組合・グラディスチウ会長のコメント。
31年続いた長寿番組「頭條新聞」が先月19日を最後に、香港当局の圧力で打ち切りになったと報じられた。
辛口風刺寸劇で人気を博していた。
去年12月、林鄭月娥行政長官への弾劾動議の否決後の放送の紹介。
興梠一郎、「習近平政権になってからとにかくメディアは党のものだと一貫して言っている。それが香港に適用されてきている」
堤伸輔、「これまでは司法が言論の自由を守った部分がかなりあった。国家安全に関わることは行政長官が任命し別の裁判官が裁けることになるので、中国政府を批判する本を出した場合、そちらに持っていかれるので、誰も守ってくれる人がいない状況になる」
●戦狼外交 中国の思惑は
中国の強硬姿勢は対香港だけではない。
中国の外交は「戦狼外交」とも呼ばれている。
佐藤正久、「大使や報道官はこぞって立ち向かう。中国批判に対しては真っ向から反論する。経済的な手段を使っても中国の国益を守ろうという状況」
新型コロナウイルスを巡ってのオーストラリアと中国の対立している。
オーストラリア・モリソン首相が「感染拡大の原因の国際調査をして中国も協力することを望む」と述べた。
これに対して中国は大麦の輸入追加関税80.5%増、オーストラリア産牛肉輸入停止、オーストラリアへの渡航自粛勧告を出した。
興梠一郎、「中国共産党が隠蔽したから世界に広がってしまったと。それを挽回するために医療援助をしたりマスク外交をやったが、やることがマイナスに出ている」
松原耕二、「中国はオーストラリアに対してやったことは日本にも適用できると思っているようだ」
佐藤正久、「中国は新型コロナウイルスのワクチン開発に国をあげて取り組んでいる。世界中に中国の医療インフラを押し進め、医療での世界覇権を目論んでいる」
●日本の対応は 中国との距離
強硬な中国に対して日本はどう向き合うのか。
香港の問題をめぐり菅義偉官房長官は「香港における国家安全法が制定されたことは遺憾であり、わが国としては引き続き状況を注視するとともに、香港市民の権利や自由が尊重されるよう関係国と連携し、中国に対してしっかり求め続けたい」と述べた。
日本政府が他の国に申し入れを行う場合、注視、懸念、憂慮、遺憾、非難と段階分けされている。
今回使われたのは「遺憾」。
佐藤正久、「法の支配は日本政府が主張しているインド太平洋構想の基本」
堤伸輔、「もう少し行動すべき。EUは6月半ばに習近平国家主席李克強首相とやり合って強い懸念を表明した」
興梠一郎、「今は米国にどう対応するか。日本と米国をセットで見ている」
●緊急取材 市民の抗議に警察が
福岡静哉が20時半の香港の様子を報道。
催涙弾が撃たれたという。
佐藤正久、「9月の選挙までにどれだけ法執行を厳格にやるか。中央政府が直接法執行をやるか。そこに注目したい」
興梠一郎、「国家安全維持交渉は事実上秘密警察なので、国家安全情報の収集とか役目に入っている。知らないうちに捕まってというのが中国だ。裁判も公開されない」
https://www.bs-tbs.co.jp/houdou1930/

じじぃの「歴史・思想_241_中国古代史・毛宗崗本の『三国志演義』」

三人の皇帝が現れた「異様」な時代

2020年4月4日  Yahoo!ニュース
あえて本当に、ひとことで言い表すとすれば、今から1800年ぐらい前の紀元200年代、中国大陸が三つの国に分かれて争っていたというものだ。
それが魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)という三国のことで、それらの国々について、まとめた歴史書のことが『三国志』である。
その三国を創業したトップの人間が、魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)である。
彼らがそれぞれに「皇帝」を名乗って「三国」が並び立った状態が、だいたい40年(西暦220年~263年)続いた。
美しいヒゲを生やした武将、関羽(かんう)関羽は敵将の首をはねて戻ってきたとき、出陣前に出された酒がまだ温かかった、という逸話が知られている。彼は後世、横浜中華街などに廟があって「関帝」としてまつられている。それぞれ小説『三国志演義』の名エピソードだが、それと似たようなことが「正史」にも記されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3f1fe9ad00968fe7d6f879b8981fe8eeb2625e5b

三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

3.『三国志演義』 より

わたしは、筑波大学の7期生にあたります。生まれて初めての独り暮らしをした当時は、まだ常陸野の面影が残り、歩いて行ける外食屋さんも限られていました。そんな環境のなか、本ばかり読んで暮らしていました。とりわけ、平凡社の「中国古典文学大系」という全60巻の叢書は、読みごたえがありました。
この叢書は、中国近世の白話小説が充実しています。『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』の「四大奇書」(世に稀なほど優れた4つの小説)をはじめ、『紅楼夢』などの長編小説が収められているからです。すべて読了しましたが、結局『三国志演義』が一番おもしろいと感じました。日本では、『水滸伝』や『西遊記』も人気なのですが、創作部分が多すぎるように思え、物語世界に没入できませんでした。
三国志演義』は、横山『三国志』や吉川『三国志』と比べたとき、関羽の特別視が気になりました。
東京の南、大田区で生まれ育ったので、横浜にはよく出かけました。今のように巨大ではありませんが、中華学校の片隅にあった関帝廟も見ています。関帝への信仰は知っていましたが、諸葛亮を押し退けるような関羽の特別扱いは、どうにも鼻につきました。
中国近代小説の祖である魯迅も、『三国志演義』の中で関羽の義が最もよく描かれる「義もて曹操を釈(はな)つ」の場面に、同様の感想を述べています。
赤壁で敗れた曹操は、退路を予測していた諸葛亮の伏せた趙雲(ちょううん)・張飛によって散々に打ち破られ、華容道(かようどう)で関羽待ち伏せにあいます。兵が疲弊の極にあった曹操は、死を覚悟しました。
ところが程昱(ていいく)は、かつて関羽にかけた恩に縋るべきだと勧めます。
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魯迅は、『中国小説史略』のなかで、「諸葛亮は、曹操がそれで滅びる運命ではないと察知したので、わざと関羽に華容道を警備させておき、しかも、わざと軍法で迫り、軍令状という誓約を立てさせて派遣した。この諸葛亮の描写は、亮を狡猾に見せるだけだが、その結果、関羽の気概は凛然としている」と述べています。
魯迅は、諸葛亮を狡猾に見せる逆効果を生みながらも、関羽の気概を凛然と表現することを『三国志演義』が優先させたと言うのです。なぜ、それほどまでに関羽を尊重するのでしょうか。
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人物像を一貫させた毛宗崗本

毛宗崗本の成立は、清の康熙(こうき)5(1666)年以降とされます。毛宗崗本は、李卓吾本の記事や文章の誤りを正し、不合理な記事を削除し、三国の物語を新たに挿入し、自らの批評を加え、物語の首尾一貫を整えて、『三国志演義』の面目を一新しました。
仙石知子『毛宗崗批評「三国志演義」の研究』(汲古書院、2017年)によれば、毛宗崗本の特徴は、人物像を一貫させたうえで、「義絶」の関羽、「智絶」の諸葛亮、「奸絶」の曹操という「三絶」を物語の中核に据えているところにあります。
主人公である劉備を「仁」の人として物語の中心に置き、聖人君子とすれば、対置する「奸絶」曹操が際立ちます。同時に、「義絶」関羽・「智絶」諸葛亮の活躍も描くのです。「三絶」それぞれの役割を定め、とりわけ「義絶」関羽は、忠義に加えて利他の義・男女の義など、さまざまな「義」を体現している特別な存在として描かれています。
毛宗崗本には、細部に至るまで綿密な表現をめぐらし、社会通念を利用することで叙述に説得力を持たせる、という特徴もあります。諸葛亮に代表される漢への忠義は、貂蝉などの女性の表現に至るまで行き届いています。
あるいは、曹操を異姓養子の子と批判しながらも、史実の劉備が異姓養子の劉封を迎えていることについて、社会通念を背景としつつ、李卓吾本よりも劉封を貶める表現を用いて説明を加えています。
仙石の分析によれば、毛宗崗本は、仁・義・智・孝・忠など朱子学の規範を根底に置きながらも、その時代を生きた知識人層と商人の上層部が共感する時代風潮を表現しています。さらに朱子学が社会に受容されていくときに生じる柔軟な解釈や、朱子学だけでは埋まらない信仰などへの共感が、毛宗崗本を決定版へと押し上げたのです。
また、毛宗崗本は、史実を重視して荒唐無稽な記述や史詩の一部を削除しました。たとえば、李卓吾本が受容された日本には伝わる、次のような「漢寿亭侯(かんじゅていこう)」の物語は削除されています。
関羽は、曹操のもとで功績を立て、寿亭侯に封じられましたが喜びません。それを聞いた曹操は、「漢」の文字を追加して、漢寿亭侯とします。関羽は、曹操が自分をよく理解してくれていると喜んだ、という話です。関羽の漢への忠節と曹操関羽理解を表現した良い虚構だと思います。
ところが史実では、関羽は「漢寿」という土地に封建された「亭侯」なので、漢の文字を後から足したという物語は史実に反しています。そのために削除されたのです。ただし、毛宗崗本がすべての虚構を廃したわけではありません。
わたしには、物語を史実に近づけた毛宗崗本のほうがしっくりきます。ほかの「四大奇書」の壮大な虚構が鼻についたように、虚構よりも事実に、文学よりも史学に興味関心があるからです。

じじぃの「ボルトン回顧録で激震・文在寅政権と南北関係の行方!プライムニュース」

韓国の反応|ボルトン氏の回顧録<韓国経済と韓国ニュース/日韓関係の崩壊>

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=pjMuGnm364g

ボルトン氏の回顧録『それが起きた部屋』

ボルトン回顧録が暴露した韓国・文在寅の「二枚舌」に米国も北朝鮮も大激怒

2020年06月30日 ニフティニュース
●ほほ笑みに隠された「二枚舌」
ドナルド・トランプ政権の内実を暴露した回顧録を6月23日に出版し、注目を浴びているジョン・ボルトン米大統領補佐官(国家安全保障問題担当)の回顧録『The Room Where It Happened』は、文大統領の実態を知るには欠かせない「教科書」ともいえる。
https://news.nifty.com/article/magazine/12179-711839/

プライムニュース 「新藤×武藤×黒田激論 韓国憤慨のボルトン本 文大統領の北政策検証」

2020年6月30日 BSフジ
【キャスター】竹内友佳、反町理 【ゲスト】新藤義孝自由民主党政務調査会長代理 衆議院議員)、武藤正敏(元駐韓国特命全権大使)、黒田勝弘産経新聞ソウル駐在客員論説委員
南北連絡事務所爆破など金与正朝鮮労働党第1副部長が主導していた韓国に対する強硬策が、24日に朝鮮中央通信が伝えた金正恩委員長の「軍事行動計画」保留によって、一時緩和する状況となった。朝鮮戦争開戦70周年直前に韓国に対する姿勢を急転換させた背景には何があったのか?緊張緩和に向け、文大統領はどんな対応策を打つのか?
そんな中、ボルトン米大統領補佐官の回顧録が韓国政界で論争を呼んでいる。
南北首脳会談を巡る文大統領や安倍首相に関するボルトン氏の主張は、日米韓の関係にどんな波紋を投げかけるのか?また、いわゆる徴用工問題や慰安婦問題、軍艦島世界文化遺産登録取り消し要求など、韓国側の動きに日本はどう対応すべきか?
●“ボルトン回顧録”で激震 文政権と南北関係の行方
韓国紙・中央日報によると、米国・ボルトン大統領補佐官回顧録には文在寅大統領を意味する「Moon」が153回も登場し、文大統領に関する記述も多い。
黒田勝弘、「韓国ではこのところ南北関係が非常に緊張している。回顧録を読むと文在寅は一生懸命やったが、悪いのは米国だとなる。トランプ大統領に悪知恵をつけたのは安倍首相ではないかと言われている。文在寅の仲裁外交の問題点や失敗に対する検証よりも、米国が日本のせいにして安心しているといういつもの状況」
●“ボルトン回顧録”で激震 文政権と米朝首脳会談の舞台裏
米国・ボルトン大統領補佐官回顧録に出てくる一昨年から去年にかけて行われた米朝交渉で、文政権がどのような動きをしたのか。

米朝交渉を巡る主な動き

2018年3月5日、金正恩委員長が韓国・鄭義溶国家安保室長と面会。
   3月8日、トランプ大統領が鄭から報告を受け、米朝首脳会談の開催に合意。
   4月27日、南北首脳会談(板門店)。
   6月12日、米朝首脳会談シンガポール)。
2019年2月27~28日、米朝首脳会談ベトナムハノイ)が決裂。
   6月30日、板門店米朝首脳会談トランプ大統領が現職大統領として初めて軍事境界線を越えて北朝鮮に足を踏み入れた。
ボルトン回顧録では初の米朝首脳会談シンガポール)について「(2018年3月に)ホワイトハウスの大統領執務室で、鄭義溶国家安保室長が『トランプ大統領に会いたい』という金正恩委員長の招待状を手渡し、トランプ大統領は瞬間的な衝動でこれを受け入れた」「後に鄭義溶(チョン・ウィヨン)国家安全室長は、(トランプの)招待については自らが先に金正恩に提案したことをほぼ認めた」と書かれている。
武藤正敏、「文政権は今まで経済にしろ南北関係にしろ、自分の支持者を失望させるような執政ばかりやっていた。だが、支持率は下がっていなかった。文政権は世論の誘導がうまい。政府の三権を担っているし言論も握っている。反対の意見を抑えつける」
新藤義孝、「日本は金正恩は核を手放さないだろうということで米朝首脳会談を見守った。結果的に会談が失敗したのは日本が米国に入れ知恵があったからだとなった」
●“ボルトン回顧録”で激震 米朝協議と文大統領の思惑
武藤正敏、「文在寅大統領にとっては米国がどう考えている、北朝鮮がどう考えているという以上に、自分たちでこうあるんだというシナリオを作って米国と北朝鮮に対して都合のいいことを言ってきた。北朝鮮に対して、米国は寧辺を段階的に廃棄すれば北朝鮮に対する米国独自の制裁、国連制裁、人道支援を再開すると言った。文在寅大統領は『トランプ大統領は私の言うことは聞くから信じてやれ』と言った。だからこそ、ベトナムハノイの首脳会談で米国が寧辺だけで『うん』と言わなかった。韓国の人たちは米朝首脳会談が失敗したのは文在寅大統領の描くシナリオにあったということを理解していない」
反町理、「韓国の人たちは米朝首脳会談が失敗したのは米国が悪いと思っているようだが」
黒田勝弘、「文在寅は南北和解と平和共存に持っていきたい。そのためには非核化が前提でなければうまくいかない。だから金正恩を説得して会わせて非核化に持っていこうという理想に向かって動いた。一番コアな問題は最初に板門店で南北首脳が会った時に2人だけの密談の場面があった。結果として金正恩は1年以内に非核化をやると言っていると聞いて米国を説得した流れがある。金正恩の非核化の意思が本当だったのか嘘だったのかということ。金正恩の非核化というのは文在寅のシナリオと同じものだったのかはわからない」
●文政権と米朝首脳会談の舞台裏
ハノイ会談後の鄭義溶国家安保室長のボルトンに対する発言について。
黒田勝弘、「これは文大統領の話として伝達している。ボルトン文在寅大統領の精神分裂症的アイデアを聞いたと言っている。ボルトンがそこまで酷評している。仲裁役割の文在寅からするとそれでも成果があった。これをとっかかりにもっと交渉をやってということ」
米朝協議と文大統領の思惑
1年前の今日、板門店で行われた米朝首脳会談について、ボルトン回顧録で「トランプ大統領は文大統領に参加してほしくなかったが、文は参加し、あわよくば3者会談にしようとしていた」と述べている。
去年6月の第3回の米朝首脳会談
トランプ大統領は米国大統領として初めて北朝鮮に足を踏み入れ、金正恩党委員長と握手を交わした。
その後文大統領を交えて立ち話をしたが、板門店の韓国側施設で行われた首脳会談に文大統領の姿はなかった。
新藤義孝、「米朝首脳会談は韓国が段取りした。それが3者会談にもっていけなかった。韓国は自分たちの国家としての力を示すことができなかった」
武藤正敏、「みっともない。それだけ文在寅大統領が朝鮮半島の問題の運転席に自分が座ることにこだわった。米朝の間の仲介をできると思っている」
●韓国政界の日本批判
米朝協議に関するボルトン回顧録の韓国の国会議員の反応について。
武藤正敏、「日本が北朝鮮が非核化しないということをトランプが散々吹き込んで、トランプ大統領の北に対する不信をあおっていたという論理になる。日本も韓国の人たちに発言する時は気を付けないと悪い方に取られてしまう」
新藤義孝、「韓国社会の中でこういう発言をしないと自分の場所が作れないのでは。市民革命によって起きた進歩派という名の社会主義に近い政権」
https://www.fnn.jp/subcategory/BS%E3%83%95%E3%82%B8LIVE%20%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9

じじぃの「歴史・思想_240_中国古代史・吉川英治の『三国志』」

吉川英治三国志』 第一巻 桃園の巻 1. 黄巾賊 朗読

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=1kKGumWalto

三人の皇帝が現れた「異様」な時代

2020年4月4日  Yahoo!ニュース
あえて本当に、ひとことで言い表すとすれば、今から1800年ぐらい前の紀元200年代、中国大陸が三つの国に分かれて争っていたというものだ。
それが魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)という三国のことで、それらの国々について、まとめた歴史書のことが『三国志』である。
その三国を創業したトップの人間が、魏の曹操(そうそう)、蜀の劉備(りゅうび)、呉の孫権(そんけん)である。
彼らがそれぞれに「皇帝」を名乗って「三国」が並び立った状態が、だいたい40年(西暦220年~263年)続いた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3f1fe9ad00968fe7d6f879b8981fe8eeb2625e5b

三国志 - 研究家の知られざる狂熱』

渡邉義浩/著 ワニブックスPLUS新書 2020年発行

2.吉川英治三国志』 より

吉川英治の『三国志』は、わたしだけではなく、日本における「三国志」の受容に大きな影響を与えました。「智絶」(智のきわみ)の諸葛亮、「奸絶」(奸のきわみ)の曹操、「義絶」(義のきわみ)の関羽のうち、毛宗崗本『三国志演義』は、関羽を第1に尊重します。これに対して吉川英治は、諸葛亮曹操という2人の英雄を中心に『三国志』を描きます。
吉川は『三国志』の「篇外余禄」に、次のように述べています。
  劇的には、劉備張飛関羽の桃園義盟(とうえんぎめい)を以て、三国志の序幕はひらかれたものと見られるが、真の三国史的意義と興味とは、何といっても、曹操の出現からであり、曹操がその、主動的役割をもっている。
  しかしこの曹操の全盛期を分水嶺として、ひとたび紙中に孔明の姿が現われると、彼の存在もたちまちにして、その主役的王座を、ふいに襄陽(じょうよう)郊外から出て来たこの布衣(ほい)の一青年に譲らざるを得なくなっている。
  ひと口にいえば、三国志曹操に始まって孔明に終る二大英傑の成敗争奪の跡を叙(じょ)したものというもさしつかえない。
  この二人を文芸的に観るならば、曹操は詩人であり、孔明は文豪といえると思う。
吉川英治が、曹操を「詩人」とするのは、曹操が建安文学を政治的に宣揚した文学者であるだけではなく、曹操が『三国志』の主役であることを示しています。
吉川は「三国志には詩がある」と言います。その詩を奏でる英雄こそが曹操なのです。曹操を「奸絶」として悪辣に描く毛宗崗本『三国志演義』とは違って、吉川は時代を切り開く曹操の革新性を高く評価したのです。
1982年からNHKテレビで放映された「人形劇・三国志」に人形を提供した川本喜八郎も、最初に吉川英治の『三国志』を読んだと言います。
    ・
帝国文庫の『三国志』とは、湖南文山の『通俗三国志』の活字本です。
それでは、吉川英治に影響を与えた湖南文山・久保天随は、どのような「三国志」を描いていたのでしょうか。
三国志演義』の完訳は、順治7(1650)年の序を持つ満州語版が世界最初となります。
『通俗三国志』は、それに次ぐ2番目の完訳で、元禄4(1691)年9月に、西川嘉長の賛助を得て、京都の栗山伊右衛門によって刊行されました。
    ・
吉川英治は、湖南文山訳の李卓吾本、久保天随訳の毛宗崗本、2つの『三国志演義』を熟読吟味したうえで、「三国志」に自らの創作を加えているのです。
吉川『三国志』は、劉備黄河の川面を見つめる場面より始まります。
  年の頃は二十四、五。
  草むらの中に、ぽつねんと坐って、膝をかかえこんでいた。
  悠久と水は行く――
毛宗崗本『三国志演義』も、冒頭に川を歌った詞を掲げています。
  滾滾(こんこん)たる長江 東に逝く水
  浪花(なみのはな)に英雄を淘尽くす ……
くらべてみると、両者の川が異なることに気がつきます。吉川が黄河から『三国志』を始めたのは、劉備の故郷タク州(たくしゅう)が北にあるからだけではないでしょう。
吉川は、中国人の民俗性を「平時にあっては温柔広潤」で、あるときには「狂激な濁浪を上げ」る「黄河の水」にたとえられています。「凶激な濁浪」という表現には、戦争中の日中関係の反映がみてとれます。
ただし吉川は、その「両面のどっちも支那なのである」とし、序文において、次のように述べています。
  だから、現代の中国大陸には、三国志時代の治乱興亡(ちらんこうぼう)がそのままあるし、作中の人物も、文化や姿こそ変わっているが、なお、今日にも生きているといっても過言でない。
吉川英治は、三国志の人物が、今日に生きている、と言っています。約1800年前の中国を描いた吉川『三国志』には、現代中国への視座が確実に存在しているのです。
われわれが、吉川『三国志』に出てくる人間像を古く感じないのは、大衆作家吉川英治が現代の視座を前提として、歴史小説を描いているからなのでしょう。