富士山可視マップ
鏡の日本列島8:『最果てが見たい』──それぞれの富士
2024.5.31 生環境構築史 伊藤孝【HBH同人】
家康の富士、北斎の富士
江戸幕府でいえば、生類憐みの令で知られる五代将軍綱吉の治世の晩期、宝永4(1707)年に、富士山は山頂火口からではなく、南東側の土手っ腹から大噴火を起こした。
富士山の噴火史のなかでは珍しい爆発的な噴火だ。噴火の衝撃は江戸まで届き、戸や障子がバタバタと音を立てたらしい★16。また、空中へ吹き上げられた火山噴出物は、風に乗り東へと流された。江戸では、噴火から2週間で約4cmの火山灰が積もった★16。もちろん、より富士山に近く、風下にあたる現在の神奈川県西部では厚さ数十cmの降灰があった。
おわりに
本稿を書きながらあらためて思ったことは、現在のような均整のとれた単独峰・富士山が存在していることのはかなさである。地質学的な時間スケールではほんの一瞬。われわれは、斜に構えている場合ではなく、この瞬間の輝きを素直に楽しむべきなのだ。幸い富士山は山梨県・静岡県民だけのものではなく、遠く近くに、そしてさまざまな方向から眺めることができる[fig. 13]。
科学研究では、一般に、「いかにして」の問いには答えられるが、「なぜ」に答えるのは難しいといわれる。富士山の地質学的・火山学的研究も例外ではない。たとえば、fig. 2は、またfig. 12でさえ、「いかにして」富士山が現在のかたちになったかを示したものといえよう。この論考でもそうであるが、「なぜ」日本で一番高い山がそこにあるのか、という点に触れていない。本気で富士山を研究している火山学者のひとり、萬年一剛は、近年の著作『富士山はいつ噴火するのか?』のなかで以下のように述べている★16。
「いろいろな研究者が、これまで富士山が大きい理由や玄武岩を噴出している理由について語ってきたが、実際のところ、どれひとつとして日本の火山学者の大多数を心から納得させる説明にはなっていない。」
https://hbh.center/08-serial_01/
『日本列島はすごい――水・森林・黄金を生んだ大地』
伊藤孝/著 中公新書 2024年発行
終章 暮らしの場としての日本列島 より
1 鹿沼土の上で暮らしてみたい
富士山の宝永噴火
1707年(宝永4年)、富士山がプリニー式噴火を起こした。江戸時代に赤穂事件がおこったころのはなしだ。この宝永噴火の河口は富士山の南東斜面に今もくっくりと残り、新幹線から富士山を眺めると、右手側の斜面上に緩やかな凹みとして認識することができる。
噴火規模は先に紹介した赤城鹿沼降下軽石を放出した赤城山噴火の3分の1程度、総マグマ噴出量として0.7DRE km3である(宮地直道・小山真人「富士火山1707年噴火[宝永噴火]についての最近の研究成果」)。
噴出物の分布は、やはり富士山を中心に同心円状に分布するのではなく東北東へと流された。江戸は厚さ数mm~数cmの火山灰で埋め尽されたことがわかる。この図から、風向きのほんのわずかな違いで、被害状況が大きく変わってしまうことが容易に想像できるだろう。
首都圏で一晩に数cmの雪が積もると、けっこうな大騒ぎになる。いうまでもなく、雪より火山灰ははるかにやっかいだ。まず、密度が大きい。そして、一粒一粒が臂臑に鋭利である。また、暖かくなっても融けずにそのまま残る。
活火山という視点で東京をみると、東京駅から直線距離で200km圏内、ちょうど西側に半円を描くように数多く分布している。西風が卓越する日本列島においては、まさに風上側にたくさんの活火山が分布しているという位置関係にある。