Welcome Back オンライン~イタリア・ポンペイ編~
死亡時の様子をそのまま伝える遺体の石膏型
ポンペイ:火山で滅びた幻のローマ都市遺跡/イタリア
世界遺産 ポンペイ
西暦1世紀、火山の爆発によって地中に埋もれてしまったポンペイをはじめとするローマ都市。その悲劇と引き替えに、街は火山灰によって保護されて、ローマ時代そのままの街並みをいまに伝えている。
今回はイタリアの世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの遺跡地域」を紹介する。
https://allabout.co.jp/gm/gc/381674/
『失われた世界史 封印された53の謎』
歴史の謎研究会/編集 青春文庫 2018年発行
大都市ポンペイ消滅の謎――大プリニウスら、大噴火の元にいた者の末路 より
古代ローマではヴェスヴィオ山の大噴火で、1万人を擁した都市ポンぺオが一瞬にして消滅した。博物学者として名高く、海軍提督でもあった大プリニウスは友人の救援に向かったが、目的を達しながら、自身は帰らぬ人となった。彼や火山灰に埋もれた人びとの死因はいったい何だったのか。
時間が停まってしまった古代ローマ都市
イタリア半島南部の観光地といえば、カプリ島の青の洞窟とポンペイ遺跡が双璧である。
ポンペイとは紀元79年8月24日に起きたヴェスヴィオ山の噴火で埋もれた古代都市の名。イタリア南部最大の都市ナポリの南東に位置し、ナポリ湾に面する。ヴェスヴィオ山の南麓に位置したことから、最大の被害を受けることとなった。
噴火の予兆は皆無に近かった。強いて言うなら、紀元62年5月2日、イタリア半島南部全域を襲った巨大地震を挙げることができる。震源地がヴェスヴィオ山に近かったと予想されることから、このときの地震が噴火の前触れであった可能性は捨てきれない。
ともあれ、このときの地震でポンペイの建物も多くが損壊して、ヴェスヴィオ山が噴火したときには、まだほとんどの公共建築物が再建の途上にあった。
現在は都市全体が屋外博物館として公開されているため、われわれは噴火当時の街並みをその目で確かめることができる。屋外遺跡は大きく公共地区と居住区、城外の秘儀壮の3地区に分かたれ、大劇場や民会会議場、神殿、浴場、公設市場、公共広場は南西部と東端部に集中している。視界の開けた公共広場からはヴェスヴィオ山が現在でもはっきり視野に入るおとから、往時のポンペイ住民で噴火の瞬間をその目で捉えた者も少なくなかったに違いない。
現代もわれわれも南東部の居住区に行けば、突如タイムマシンで過去に飛ばされた思いになるに違いない。そこには遺体の石膏型がそのままの状態で展示されているからだ。
そこには安らかな死を迎えたと思われる遺体は皆無で、誰もがもがき苦しみながら息を引き取ったことがうかがえる。彼らの直接の死因は何だったのか。
降り注ぐ噴出物と迫りくる火砕流の恐怖
幸か不幸か、ポンペイ最後の日については、高名な博物学者にしてナポリ湾の海軍基地にしてナポリ湾北端の海軍基地ミセヌムの提督を務めていた大プリニウスの甥にあたる雄弁家の小プリニウスが詳細な現地レポートを残してくれている。
最初に異変に気付いたのは小プリニウスの母で、時刻が第7時頃(正午から約1時間の間)。大きさも形もつねとは異なる雲を目にしたのだった。
それを聞いた大プリニウスが高い場所に昇って観測したところ、ヴェスヴィオ山に異常が生じていることがわかり、近づいて確認する必要があると判断して、すぐさま快速艇の準備を命じた。だが、事態の推移は思いのほか速く、ヴェスヴィオ山の麓に別荘を構える友人から救援要請の手紙が送られてくるに及び、大プリニウスは改めて四段櫂船の出艦を命じた。ひとりでも多くの住民を救出しようとしたのである。
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噴火が収まってのち、小プリニウスが引き返してきたところ、大プリニウスは外傷のまったくないまま、眠っているような表情で行き絶えていた。小プリニウスは、伯父の死は濃い煙で呼吸が妨げられ、気道が塞がれたためと推測した。それというのも、大プリニウスの気道が生来狭隘で、しばしば炎症を起こしていたからだった。
この日の噴火によr死者はポンペイだけで約2000人を数えた。建物の崩壊や噴出物の落下による死者もいたが、それらよりも降り積もる火山灰に口や肺を塞がれるか、有毒ガスにやられた者のほうが多かった。大プリニウスのように安らかな表情で息絶えた者は少なく、多くが苦悶の表情と姿勢で最期を迎えたのだった。
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どうでもいい、じじぃの日記。
今から約2000年前の西暦79年。 古代ローマでヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし、当時1万人と推測されるポンペイの都市が一晩で消滅した。
この時に大噴火の一部始終を記録した青年がいた。
「幸か不幸か、ポンペイ最後の日については、高名な博物学者にしてナポリ湾の海軍基地にしてナポリ湾北端の海軍基地ミセヌムの提督を務めていた大プリニウスの甥にあたる雄弁家の小プリニウスが詳細な現地レポートを残してくれている」