【高騰続く金の取引価格】国内最大!『金』鉱山に潜入リポート News+おやっと!(6月19日(水)放送)
動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=N6qJEl0Kt6w
だから日本は「黄金の国ジパング」と呼ばれた…平安時代の遣唐使たちが現地でばらまいた東北産の物品とは
2024/07/26 PRESIDENT Online 【執筆者】伊藤孝
中尊寺金色堂の輝きが意味すること。
天平21年(749年)に始まった陸奥での砂金の産出に端を発する金を求める活動は、河原での砂金の採取に留まらず、やがて山地での金山開発へと進んでいった。
現在の岩手県南部から宮城県にかけて南北に延びる北上山地を中心に多くの金鉱床も発見され、それらを財源として、陸奥の平泉周辺には藤原三代の世が華開く。初代清衡の晩年(1124年)に建立された中尊寺金色堂は、その象徴といえるだろう(図表1)。
https://president.jp/articles/-/83955?page=4
玉山金山とは?~平泉に黄金文化をもたらした伝説の鉱山~
2024年1月22日 まっぷるトラベルガイド
かつて奥州は黄金の国でした。
奥州藤原氏から伊達藩、近代に至るまで、その財政を支えた玉山金山の「金」はどのように生成されたのでしょうか。
https://www.mapple.net/articles/bk/16687/
『日本列島はすごい――水・森林・黄金を生んだ大地』
伊藤孝/著 中公新書 2024年発行
8章 黄金の日々――列島の「錬金術」 より
2 大陸から相続した遺産――陸奥の砂金
藤原3代と金山
天平21年(749年)に始まった陸奥での砂金の産出に端を発する金を求める活動は、河原での砂金の採取に留まらず、やがて山地での金山開発へと進んでいった。
現在の岩手県南部から宮城県にかけて南北に延びる北上山地を中心に多くの金鉱床も発見され、それらを財源として、陸奥の平泉周辺には藤原三代の世が華開く。初代清衡の晩年(1124年)に建立された中尊寺金色堂は、その象徴といえるだろう(図、画像参照)。
この奥州藤原氏は、藤原北家の系譜と位置づけられ、遠縁には西行がいる。遠い遠い同族。新幹線も飛行機もない時代、紀伊国田仲荘(現在の和歌山県紀の川市)を知行地としていた西行は生涯二度も平泉の地を踏んでいるが、遠い親戚であることと関係があるのだろうか。
最初は出家から4年後の天養元年(1144年)ごろ。二度目は文治2年(1186年)なので、なんと69歳の年。この旅の目的は、焼失した東大寺の再建を目指す重源上人の依頼を受け、奥州藤原氏に金の寄進をお願いするためである。12世紀末になっても陸奥には豊富な金が存在していたのだ。
しかし、ついに15世紀になると、遣明船の朝貢品リストには金は見当たらなくなる。最初の発見から約700年、もはや陸奥には当時の技術で回収できる黄金は残っていなかった。
ただ南部地方の民謡「牛方節」に、「田舎なれども南部の国は西も東も金の山」とその余韻を残すのみである。
陸奥の金鉱床はいつできたのか
ながながと昔を懐かしんだ金のはなしを書いてきた。でも、それらが霞んでしまうような、もっと昔の出来事をみていきたい。北上山地に産する金鉱床について、いくつかの生成年代の決定が行われている。それらを参照すると、およそ1億年前となる。また恐竜が元気一杯だった時代に相当する。
現在の東北日本には、太平洋の東側で生まれたプレートが延々と旅をした末、沈み込んでいる。そのため、沈み込む海洋プレートは冷え切ったものだ。地下深部へと沈み込んだプレートから水が放出され、されにより岩石の一部が溶け、マグマが生成されている。第3章で紹介したとおりだ。
金鉱床が形成された白亜紀の中頃、事情はかなり異なる。当時、日本列島はまだできておらず、ユーラシア大陸の東縁に位置していた。そこでは海嶺で形成されたばかりの、また高温の海洋プレートが沈み込んでいた可能性が指摘されている。海嶺が海溝に近接していたわけだ。そのため地下の温度構造も大きく異なり、沈み込んだプレートそのものが溶解するということも起こったらしい。現在の北上山地に分布する深成岩(しんせいがん)体の化学・同位体的な特徴からの推論である。
北上山地には大小多数の金鉱床が分布している。これらの約8割は、マグマが地殻仲に貫入してできた岩石(貫入岩と呼ばれる)近接しており、金鉱床生成への関与が指摘されている。
4 自立し真のジパングへ――菱刈金山
よみがえる黄金のジパング?
日本において金山の代名詞となっている佐渡も、1989年にはついに閉山。金鉱床の専門家。井澤英二のの著書『よみがえる黄金のジパング』によると、佐渡金山からは断続的ながら約400年におよぶ歴史のなかで総計83t(トン)の金が得られたらしい。オスのアフリカゾウでいうと14頭分に相当する重さだ。
それにしても、その本のタイトルは、なぜ「よみがえる」となっているのだろう。実は、佐渡とあたかも世代交代をするかのように、新しい金山が発見されたからだ。
1970年代、金とドルが変動相場制に移行し、また石油ショックも手伝って金の価格が上昇、日本列島でも金資源を見直そう、新たな金山を探しだそう、という機運が高まった。
これまで知られていた金山の周りを最新の地球科学的な手法をもって探索が重ねられ、その結果見つかったのが、鹿児島県の菱刈金山である。このように書いてしまうと味も素っ気もないが、むろん、多くの方々の血のにじむような努力の末、幸運の女神が微笑み、なんとか発見にこぎ着けたことはいうまでもない。発見までの経緯じは、井澤などに詳しい。
菱刈金山の衝撃
この菱刈金山、発見当時から金の品位では世界でもトップクラスということで大きな注目を集めた。平均的な金山における金鉱石の品位が1~2g/tのなか、菱刈の試掘結果からは数十g/tの品位が期待された。そして1985年に出鉱が始まり、累計産金量では、わずか12年で採鉱の歴史400年の佐渡を抜き、さらに2020年で250tに迫り、今も採鉱が続けられている。
まとめ
ここまで述べてきたように、日本列島は、豊富な金資源が存在する列島である。
しかし、列島にホモ・サピエンスが移り住んでからほとんどの期間、その光輝く金属は興味の対象外。国外の人たちと付き合うようになり、この世界で金がどのゆに扱われ、いかに渇望されているかを学び、徐々に気にする存在になる。
奈良時代の一大公共事業である大仏建立の最中、日本列島にも金が存在することが確かめられ、われわれはすぐ手に取れる砂金を手始めに、固い岩石に含まれる金鉱脈へと触手を伸ばし、さらには地下数百mまで掘り進み、黄金を求め続けた。
この砂金から金鉱脈へ、また地表から地下への金採鉱の歴史は、まさに日本列島が大陸時代、1億年前に形成された金鉱床から、大陸から自立するイベントとの関連で生まれた金、そしてついには、自立後にマグマ溜まりの周辺で作られたばかりの金鉱床へと採鉱の対象を拡げてきた道のりといえよう。