時の散策 第18話/旅に生きた松尾芭蕉
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芭蕉が歩いた道 「おくの細道」
鏡の日本列島4:芭蕉と歩く「改造」後の日本列島
2021.3.4 生環境構築史 伊藤孝【編集同人】
芭蕉が歩いた道
日本列島がユーラシア大陸からの分離を終え、ほぼ現在の位置に配置された時期から話を進めたい。およそ1,500万年前のこと。この時期の東北日本は今現在の様子とまったく異なり広範囲で水没していたことわかっている★2[fig. 1]。東北日本で大きな陸といえるのは、現在の北上山地、阿武隈山地である。
この図に芭蕉が「おくのほそ道」の旅で曾良と歩いたルートを重ねてみた。多くの行程が、当時は海であったことがわかる。もしこの旅が300年前ではなく、1,500万年前になされていたなら、芭蕉はほとんど船上の人となっていたわけだ。「おくのほそ道」に納められた多くが海の絶景を詠んだ句、もしくは酔いの苦しみの句になっていたかもしれない。
https://hbh.center/04-serial_01/
『日本列島はすごい――水・森林・黄金を生んだ大地』
伊藤孝/著 中公新書 2024年発行
2章 成り立ち より
1 独立まで
日本列島は、以前はユーラシア大陸の東縁部に位置していたこと、そこから分離し、現在の位置に落ちついたのは約1500万年前、という点は多くの研究者の意見が一としている。ただし、なぜ大陸からの分離が起こったのか、どのようなプロセスで進行したのか、という点では議論が続いている。
また、いつから分離が開始されたのか、を決定するおとも難しい。もちろん、日本列島の起源に関わる根本的な問題であるので、多くの研究者がこれらの課題に挑戦しており、たくさんの研究成果も得られているが、現時点では共通認識には到達していない。
はっきりしているのは、新生代になって以降、「沈み込まれる」側のプレートの上面が割れ、拡大し、新たな海盆(かいぼん)が形成する、という出来事が起こっていたのは、ほとんどが西太平洋地域ということだ。結果、背弧(はいこ)海盆(縁海)が多数生まれた。日本海もその1つである。
2 独立のあと
芭蕉が歩いた道
日本列島がユーラシア北部からの分離を終え、ほぼ現在の位置に配置された時期からはなしを続けよう。この時期の東北日本は今現在の様子とまったく異なり広範囲で水没していたことがわかっている(図、画像参照)。東北日本で大きな陸といえるのh、現在の北上山地、阿武隈山地である。
この図に松尾芭蕉が『奥のほそ道』の旅で曽良と歩いたルートを重ねてみた。多くの行程が、登委は海であったことがわかる。
もしこの旅が300年前でなく、1500万年前になされていたなら、芭蕉はほとんど船上の人となっていたわけだ。『奥のほそ道』に収められた多くが海の絶景を詠んだ句、もしくは酔いの苦しみの句になっていたかもしれない。
ただふざけているわけでなく、これは重要な意味を持っているように思われる。すなわち芭蕉は、1500万年前は海であり、それ以降、徐々に陸になっていった景色に魅了され、それを一歩一歩踏みしめたことになる。
芭蕉が生を受け、29歳まで過ごした現在の三重県の伊賀上野は盆地であり、それを縁取る山々は大陸の一部を構成していた古い花崗岩質からなる。いわば前半生は大陸的な岩石がかたちづくる景観に身を置いていたわけだ。そして、江戸へ出たのち、40歳を過ぎたあたりからいくつかの旅に出るが、句作の集大成として選んだのが、奥羽・北陸への旅である。
もちろん芭蕉は、尊敬し憧れる西行と同じ景色を見る、歌枕を訪ねる、さらには仙台藩の状況を探るということがこの地を選んだ理由であり、地質学的な背景を考慮にしていたわけではない。しかし、実際に歩いてみた結果、彼を魅了したのは1500万年前には海で、それ以降、陸になった「若い」景観であったのだ。この図(『奥のほそ道』地質年表)を見ると、多くの句が、日本列島が大陸から分離しはじめてから形成された岩石・地層が作る場で詠まれたことがわかる。芭蕉が幼年期から青年期にかけて眺めたであろう。陽が昇り沈む山々の連なりをかたちづくっていたような古い岩石が醸し出し景色には、あまり反応しなかった。
まとめ
本章では、日本列島、とくに東北日本がユーラシア大陸から離れ、現在の位置に到達してからの「大土木工事」の様子を描いた。その様子はまさに「日本列島改造」と称するにふさわしい。
大陸から切り離され、現在の位置で水没しかけてきた東北日本。海底火山の噴出物、泥・砂・レキなどの砕屑物、また海のプランクトンの力も借りて徐々に海を埋め立てていった。やがて、東西の圧縮が強くなり、高いところはより高く、低いところはより低くなり、凹凸がつきだした。
そして、厚くなった列島上にあららな火山の列が作られ、海沿いには海岸平野がが発達していく。そのような履歴を持つため、東北日本では、海を埋め立てた岩石・地層、またそれら土台の上に発達する平野・盆地という土地の成り立ちをもつ場所が多くを占める。
人間の活動の多くは平野や盆地を中心に営まれ、結果として道もそれらをつなぐように発達していく。芭蕉が訪れ、宿とした場所もどうしてもそのような場所が多くなる。
つまるところ、芭蕉は大海原の船上の人となる必要はなく、平野から旅立ち、台地の上を踏みしめ、山間(さんかん)の盆地に立ち入り、時々、新しい火山を極めつつ、基本的には1500万年前以降に陸となった大地を踏みしめ、美濃大垣で『おくのほそ道』の旅を終えた。
そしてどうやら、この旅ののち芭蕉はなんだかんだと理由をつけ、江戸へ行きたがらなかったらしい。嵐山光三郎は「大津は芭蕉が最後にたどりついた心おきなくおちつく地であった」と書いている(『芭蕉起行』)。江戸に残した弟子たちの求めに抗しきれず、一旦江戸へ出向くが、2年も経たずにまた関西へ舞い戻った。体調がすぐれないなか芭蕉は、伊賀上野、大津、京都などに身を置く。いずれも日本列島が大陸の一部だったころに作られた岩石が周りを取り囲む土地である。