じじぃの「カオス・地球_392_死因の人類史・第5章・スペイン風邪」
The story of the 1918 flu pandemic
動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=pCF_ePFYPDU
史上最悪のパンデミックだったスペイン風邪の大流行
2020.4.25 JBpress
第一次世界大戦のさなかの1918年、世界中を強烈な疫病が席巻しました。いわゆる「スペイン風邪」です。
スペイン風邪はインフルエンザの一種なのですが、1918年に初めて感染が確認され、それから約2年間のうちに、世界で5億人が感染したとされています。当時の世界の人口は約20~30億人と推計されているので(15億人という説もあります)、世界の約4分の1から6分の1の人々が感染したことになります。そしてスペイン風邪が原因で亡くなった方は、2000万~5000万人にのぼったとされます。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60303
死因の人類史
【目次】
序章 シエナの四騎士
第1部 さまざまな死因(死とは何か?;『死亡表に関する自然的および政治的諸観察』 ほか)
第2部 感染症(黒死病;ミルクメイドの手 ほか)
第3部 人は食べたものによって決まる(ヘンゼルとグレーテル;『壊血病に関する一考察』 ほか)
第4部 死にいたる遺伝(ウディ・ガスリーとベネズエラの金髪の天使;国王の娘たち ほか)
第5部 不品行な死(「汝殺すなかれ」;アルコールと薬物依存 ほか)
結び 明るい未来は待っているのか?
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『死因の人類史』
アンドリュー・ドイグ/著、秋山勝/訳 草思社 2024年発行
疫病、飢餓、暴力、そして心臓、脳血管、癌…人はどのように死んできたのか?
有史以来のさまざまな死因とその変化の実相を、科学的・歴史的・社会的視点から検証した初の試み、壮大な“死”の人類史。
第2部 感染症 第5章 ミルクメイドの手 より
戦争によって世界中に拡大した「スペイン風邪」
天然痘をめぐる物語がきわめて重要なのには、いくつか理由がある、誰が見ても明らかなのは、20世紀に4億人の命を奪った恐ろしい病気が、いまでは根絶されたという事実だ。WHOの根絶プログラムの成功は、世界が一致して協力すれば致死的な病気さえ一掃できることを明らかにした。これまでに根絶が達成されたのは天然痘だけだが、アフガニスタンとパキスタンにだけ残るポリオ(急性灰白髄炎)も根絶が間近な感染症だ。ワクチン接種という戦略という価値が最終的に裏づけられたのである。軽度の感染症、あるいは感染症のある微生物やウイルスの一部を体に取り込み、意図的にその病気に罹患することで抗体の産生をうながし、将来の感染を防ぐ準備を整える。一度開発されたワクチン」が大量生産され、大勢の人たちに幅広く投与されることで、安価なうえにしかも高い効果を容易に発揮してきたのだ。
ジェスティとジェンナーのすばらしい業績にもかかわらず、予防接種という発想は50年以上にわたって一度も応用されることはなかった。ある病気に意図してかかることで、病気そのものを防ぐという考え方は、牛痘た天然痘のほかには普及しなかったようだ。だが、1870年代になると、フランスの微生物学者ルイ・パスツールが、炭疽病、狂犬病を防ぐために弱毒化した微生物を用いて、予防接種という技術をさらに発展させることに成功する。
ワクチン開発でもっとも卓越した研究者は、アメリカの微生物学者モーリス・ヒルマンである。ヒルマンと彼の研究チームは、主としてアメリカの製薬会社メルク・アンド・カンパニーに勤務していたときに40種類以上のワクチンを開発しており、うち8種類のワクチン――麻疹(はしか)、おたふくかぜ、A型肝炎、B型肝炎、水痘、髄膜炎、インフルエンザ菌――は現在でも使われている重要なワクチンだ。通常、ヒルマンが用いていた手法はウイルスや細菌を組織培養して突然変異を起こさせ、弱毒化して危険性を取り除きも、免疫反応を起こせる程度の病原性のワクチンを作り出すというものだった。ヒルマンのワクチンで現在でも年間800万人以上の命が救われている。数の点で言うなら、20世紀においてヒルマンより多くの命を救った研究者はいない。
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インフルエンザのウイルスこそ、新型コロナウイルスの衝撃など足元にもおよばない大流行を引き起こす可能性がある最有力候補だ。毎年変異を繰り返し、抗体が結合する膜タンパク質を変化させるので、ワクチンの効果を逃れることができる。1918年の春から翌19年初頭にかけ、歴史上もっとも広範囲に流行した病気がある。この短い期間に全世界でなんと5000万人が死亡、推定で数億人が発病した。感染は第一波から第三波と3つの波となって地球を覆った。最初の症例はカンザス州北部のハスケル郡で発生したと推定されている。このときのインフルエンザウイルスのパンデミックは、一般に「スペイン風邪」として知られてきたが、「アメリカ風邪」もしくは「カンザス風邪」と言ったほうが正確だったのかもしれない。
発生から1ヵ月後、インフルエンザは西ヨーロッパに到達した。当時、第一次世界大戦に参戦していたアメリカ軍によってもたらされ、ヨーロッパの戦場で急速に拡大した。6月には中国、オーストラリア、インド、東南アジアと驚くほどの速さで広がっている。同月、50万人のドイツ兵が感染して西部戦線の攻勢を維持できなくなる。開戦からすでに4年、長期にわたって貧弱な食生活を送ってきたため、新型のインフルエンザに対するドイツ兵の抵抗力は栄養価の高い食事が可能だった連合軍の兵士よりも劣っていた。状況はドイツの民間人も変わらず、終戦間際の数ヵ月で17万5000人が死亡している。
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スペイン風邪の病原菌はどのように発生したのだろう? 現在使われている塩基配列決定法で、ウイルスの進化に関する理解は一変した。ウイルスは突然変異のペースが速いだけに異なる菌の株比較が容易で、年ごとにインフルエンザがどのように広がっていくのかがわかる。現在では何千ものインフルエンザRNAのゲノム配列が利用でき、ウイルスは人間だけでなく、鶏や豚にも感染することがわかっている。1905年ごろ、<H1>と呼ばれるインフルエンザの株が鳥からヒトに感染したと考えられている。<H1>そのものはたいした問題ではないが、1917年にヒトの<H1>が鳥の<N1>株から変種の新しい遺伝子をいくつか拾ってしまう。そうしてできた<H1N1>株が新型インフルエンザとして致命的な被害をもたらしていたのだ。その後、ヒトの<H1N1>は豚に感染し、さらに数年後、<H1N1>は致死性の低い型にふたたび変異したことで、スペイン風邪のパンデミックは短命い終わった。
20世紀、二度目のインフルエンザのパンデミックは1957年に香港で発生、25万人が死亡した。だが、死者5000万人に達した1919年のスペイン風邪のような規模での拡大はかろうじて回避されている。前出のモーリス・ヒルマンが、この流行は新型インフルエンザが原因だと考えて指揮ををとったからだった。
ヒルマンはいわゆる「アジア風邪」と呼ばれるインフルエンザに感染した患者の血液サンプルを手に入れると、そのウイルスを精製して世界のほかの地域で暮らす人びとの血液から得た抗体でテストを試みた。だが、そうした血液サンプルかえたら抗体では、新しいウイルスを認識することはほとんどなかった。それは、この新型インフルエンザに対する免疫を持つ人がほとんどいないことを意味する。つまり、世界的な新型インフルエンザの流行が起こる可能性があったのだ。強い感染力を持つインフルエンザが香港から突発的に発生し、国境や大陸を越えて世界中に広がるのは時間の問題だった。
ヒルマンは警鐘を鳴らした。新しいワクチンを大至急開発しなくてはならない。ヒルマンはウイルスをアクチンメーカー数社に送り、鶏卵でウイルスを培養させた。やがてウイルスは鶏卵に適応、突然変異を繰り返してヒトへの感染には適さないようになり、最終的にこのウイルスはヒトに投与しても危険のない株に成長した。しかもこの抗体は、オリジナルのアジア風邪のウイルスは認識することができた。これこそ探し求めたワクチンだった。