じじぃの「スポーツ国家アメリカ・第1章・野球の起源!アメリカの雑学」

7th Inning Stretch「私を野球に連れてって!」3万人の大合唱! Take me out to the ball game at Minute Maid Park 2022

動画 YouTube
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『スポーツ国家アメリカ』

鈴木透/著 中央公論新社 2018年発行

自由と平等の理念を持つ、移民の国アメリカ。全米がスーパーボウルに熱狂するなど、スポーツが大きな存在感を持つ。野球をはじめとするアメリカ発祥の競技は、社会や文化とどう関係しているか。人種や性、地域社会の問題にアスリートたちはどう向き合ってきたか。大リーグの選手獲得方法やトランプ大統領とプロレスの関係は、現代アメリカの何を象徴しているのか。スポーツから見えてくる、超大国の成り立ちと現在。

第1部 アメリカ型競技の生い立ち 第1章 南北戦争と国技野球の誕生 より

近代戦への過度期としての南北戦争

南北戦争以前から競技としてすでに歩み始めていた野球は、産業社会以前の前近代にルーツを持ちつつも、その発展過程では産業社会の影響を受けている。そして、こうした前近代と近代が混在する様子は、野球の普及の契機となった南北戦争そのものに当てはまる。

奴隷制南部の連邦からの脱退という連邦分裂の危機を収拾した南北戦争は、前近代的戦法から近代戦への過度期に位置していた。前近代的戦法は、武器を持って近づいた両軍が至近距離で相手を仕留める合戦型だ。これは一騎打ちの壮大な集積ともいえる。それに対し近代戦は、離れた場所から大砲などの大量破壊兵器を打ち込んだり、航空機から爆弾を投下するなど、効率的に敵を殺傷し、味方の被害を減らす戦い方をする。近代戦でも歩兵同士の戦いがなくなったわけではないが、それは最初から戦いの中心ではなく、大量破壊兵器と役割分担する存在である。

野球における近代性と前近代性の混在

南北戦争では、組織を効率よく運用し、味方の犠牲を最小化しつつ攻撃の成果かを最大化しようとする近代戦の特徴と、個人の一騎打ちによって局面を打開しようとする前近代戦的要素が混在していた。野球には、これに対応する特徴が見られる。

まず、野球の近代的側面についていえば、ゲームの効率的な運営と組織性の重視が挙げられる。クリケットから時間を大幅に短縮したし、フォアボールの導入はゲームの停滞への抑止策だった。また、ダブルプレ―やダブルスティール、ヒットエンドランなどの組織プレーの導入や、守備の中継プレー、自分はアウトになっても走者を進めるバンドなどには、個の能力以上の成果を組織の力で引き出そうとする発想が見て取れるだろう。

さらに、野球は記録魔の競技である。選手のプレーを様々な観点からデータ化し、数値化するのに熱心だ。そして、勝敗と並んで、そうした数値を競うことも野球の重要な魅力になっている。打率や防御率といった確率を重視する発想は、この競技が予測可能性を追求するという、近代産業社会の基本的発想と親和性を持つことを示しているのだ。

ところが、一方で野球には前近代的要素も色濃く残っている。短縮されたといっても時間制限はない(大リーグでは決着がつくまで延長線を行う)し、2時間以上要するのが普通だ。
それに、そもそも野球の中核は、投手と打者との一騎打ちであり、これの集積でゲームが成り立っている。一騎打ちの集積というべき前近代戦の特徴に似ているのだ。また、野球では、ファウルやホームランのボールがよく観客席に飛び込むが、本来なら選手しか触れないボールにこれほど観客が触れられる競技も珍しい。選手と観客の境界線の敷居が低い4という野球の特質は、初期の近代フットボールにおける選手と観客の区分の曖昧さを連想させる。

加えて野球は、近代社会が志向する規則正しさや互換性などにあまり執着しない。サッカーならゴールの大きさは決められている。だが、野球のストライクゾーンは、打者の身長次第で広くも狭くもなり、ゴールという物理的空間が体現するような客観的な基準はない。また、サッカーでは、点数になるかどうかはボールの行方にかかっており、それがゴールに入れば自動的に得点となる。
ところが野球では、ホームランを撃っても、打者がベースを1周し、すべての塁を踏まえなければ得点にならない。つまり、ストライクの範囲も、点になるかを決めるのも、ボールではなくて個人差を持つ人間なのだ。不規則容認をし、客観的基準に一元化しないという野球の人間中心主義は、前近代的世界を彷彿させる。

さらに、野球場の規模も場所ごとに様々である。現在の大リーグの球場んの中にも、ボストンのフェンウェイ・パークのようにレフトスタンドがなく、そこにはただ緑色の高い壁(グリーン・モンスターと呼ばれる)がそびえている球場もあるし、外野のフェンスが扇型に設置されておらず、所々で角張っている球場もある。ファウルゾーンの広さも球場によってまちまちだ。ある球場ではスタンドに入るようなファイルも、別の球場では野手に捕球されてしまうかもしれない。交換制やルールの統一性を重視する近代スポーツの方向性からすれば、野球ほど試合会場の規格が不統一な球技はない。

愛国的な競技として認知された野球ではあるが、それがアメリカ社会に受け入れられている事実は、こうした野球における近代性と前近代性の混在もが、アメリカでは肯定的に捉えられてきたことを暗示する。現に、アメリカにおける野球の神聖さは、これら両方の要素が強化された結果、揺るぎないものとなったと見ることさえできるのである。