じじぃの「カオス・地球_384_街場の米中論・第5章・陰謀論・Qアノン」

Trump and QAnon: The cult and the conspiracy | The Listening Post

動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=-kvAjt7Zuyk

Qアノン陰謀論とは何か


【解説】 Qアノン陰謀論とは何か、どこから来たのか 米大統領選への影響は

2020年9月25日 BBCニュース
「QAnon(キュー・アノン)」と呼ばれる極端な陰謀論は、アメリカを中心にオンラインで人気を増している。そしてその支持者は、どうやら自分のことが好きなようだと、ドナルド・トランプ米大統領が発言するに至った。

トランプ氏は8月18日の定例記者会見で「Qアノン」について意見を求められ、「この国を愛する人たちだと聞いた」と答えた。
「おそらく僕のことが好きらしいというほかは、実際は何も知らないんだ」
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53929442

街場の米中論

【目次】
第1章 帰ってきた「国民国家」時代の主導権争い
第2章 自由のリアリティ
第3章 宗教国家アメリカの「大覚醒」
第4章 解決不能な「自由」と「平等」

第5章 ポストモダン後にやって来た「陰謀論」時代

第6章 「リンカーンマルクス」という仮説
第7章 国民的和解に向かうための「葛藤」
第8章 農民の飢餓
第9章 米中対立の狭間で生きるということ

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『街場の米中論』

内田樹/著 東洋経済新報社 2023年発行

疫病と戦争で再強化される「国民国家」はどこへ向かうのか。
拮抗する「民主主義と権威主義」のゆくえは。
希代の思想家が覇権国「アメリカ」と「中国」の比較統治論から読み解く。

第5章 ポストモダン後にやって来た「陰謀論」時代 より

陰謀論一神教

日本でも陰謀論を宣布する人はいますけれども、欧米ほどではありません。これは一神教信仰と深いところでつながっている信憑の形式だからだと僕は思います。

一神教ではこの世のできごとはすべて神の摂理によって統御されているとされます。神の手で「あらかじめ書かれたシナリオ」が存在して、すべてはそれに従って生起している。これは一神教信仰の前提です。ですから、いま目の前で生起していることはいくつかの要素が組み亜わさったことの偶有的な帰結であって、世の中はこんなふうではなかった可能性があるという考え方を一神教信者は(あまり)しません。

先ほどフランス革命の後の貴族や僧侶が「複数の原因の複合的効果としての革命」という発想には興味を示さず、「全知全能の”オーサー”によってあらかじめ書かれたシナリオ」が存在すると信じ切ったという話をしましたけれど、これは一神教固有の発想法と言ってよいと思います。彼らは「起きたことはなぜ起きたのか?」という問いは立てますけれど、「起きてもよかったはずのことはなぜ起きなかったのか?」という問いにまったく興味を示しません。

アメリカではQアノンが広げた陰謀論が広く信じられています。悪魔崇拝者・小児性愛者・人肉嗜食者による秘密結社が世界を裏で支配し、ドナルド・トランプは神に遣わされた救世主としてこれを密かに戦っている」というストーリーです。アメリカではこれを信じている人が数百万に達すると言われています。どうしてこんな「変な話」を信じる人が百万単位で存在するのが不思議ですが、「世界的規模の秘密結社がさまざまな悪事をことごとく統御しており、すべての悪行は彼らの立てたシナリオに従って実現している」というのが一神教信仰の「裏返し」だと気がつけば、納得がゆきます。

陰謀論者の多くはキリスト教福音主義の信者と重なりますが、彼らは「神の摂理」が信じられなくなったので「悪魔の摂理」を信じることにしたのです。「この世で起きていることのすべては神に摂理に従っている」と現実を妨害しようと行っている」と現実を拒否するのも、思考のパターンとしては同型的です。だから、このシフトには内的葛藤がない。素朴な信仰と陰謀論を隔てる距離は、僕たちが想像するよりはるかに狭いようです。

否定と肯定

歴史修正主義は「世界の見え方はいろいろあり、どれも等権利である」という点では「ポスト真実」の時代の徴候的な現象だと言えます。2016年にDenial(否定と肯定)という映画が公開されました。アウシュビッツガス室はなかったという主張をなす歴史修正主義者デイヴィッド・アーヴィングが彼を批判した歴史学者デボラ・リップシュタットを名誉棄損で訴えた実際の裁判に取材したものです。

歴史修正主義者の目的は裁判の場において「アウシュビッツガス室はあり、ユダヤ人の大量虐殺が行われた」という意見と「アウシュビッツガス室はなく、ゆえにユダヤ人の大量逆説もなかった」という意見を「両論併記」させることでした。ホロコーストがあったという考えもあり、なかったという考え方もある。「どっちもどっち」である。
そうやってホロコーストを「オルタナティブ・ファクト」の1つに格下げして、歴史学の信頼性を損なうことがアーヴィングのねらいでした。
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果たして「ポスト真実」では何を信じて生きてゆけばよいのでしょうか。僕は別にそれほど悲観的ではありません。先ほど書いたようにオルタナティブ・ファクツ論は「しべての主観的事実は等権利である」ということを原理的な足場にしていますけれども、これな間違っています。たしかにすべての人間の認知にはある種のバイアスがかかっています。けれど、それぞれの認知の間にも「割と客観的」と「ひどく主観的」、「割と常識的」と「ひどく非常識」の差は存在します。そして、僕たちはこの低度の差を認知することはできる。これが「100パーセントの真実だ」と言い切ることはできなくても、真実含有量が80%の言明と3%の間の違いくらいは感知できます。その判断の手かかりになるのは、その人たちがそれまで語ってきたことのうちの真実含有度の「通算成績」だったり、情報の精粗だぅたり、命題の論理性だったり、僕たちが経験的に知っている「嘘をつく時に人間がどんな表明になるか」だったり……手がかりはいくらでもあります。だから、あとはその計測性能の精度は上げればいい。「計測の制度を上げる」ことは「真偽の判定を下す」こととはレベルの違うことです。けれども、計測の制度を上げておけば、「偽命題」に惑わされるリスクは減じることができる。ポスト真実の時代」において、正気を保つためには、常識の力をもう一度信じるしかない。僕はそう思います。