世界では今、民主主義が劣勢に…各地で増加する権威主義国家、その背景にあるものとは?
2024.04.26 TOKYO MX+
TOKYO MX(地上波9ch)朝の報道・情報生番組「堀潤モーニングFLAG(モニフラ)」(毎週月~金曜6:59~)。「New global」のコーナーでは、衰退する世界の“民主主義”にスポットを当てました。
また、世界167の国や地域を対象とした民主主義指数のランキングでは、ノルウェー(1位)やアイスランド(3位)といった北欧が上位に入り、日本は16位。アメリカは29位で、ロシアは144位。中国は148位となっています。日本はアジア、そして世界のなかでも上位で、平和・民主・自由がまだまだ安定しており、堀は「だからこそそれを守る、世界にその価値を広げていく使命があると思う」と言います。
https://s.mxtv.jp/tokyomxplus/mx/article/202404260650/detail/
すぐ忘れる日本人の精神構造史
【目次】
はじめに
序章 民俗学の視点で日本の歴史を見るということ
第1章 日本人のマインドは、縄文ではなく稲作から始まった
第2章 武家政権が起こした社会変化
第3章 信仰、道徳、芸能の形成
第4章 黒船来航、舶来好き日本人の真骨頂
第5章 敗戦、経済大国、そして凋落へ
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
『すぐ忘れる日本人の精神構造史―民俗学の視点から日本を解剖』
新谷尚紀/著 さくら舎 2024年発行
生活が苦しくても「しかたがない」と我慢する、責任追及をせず問題点をふわっとさせたまま何となく進み、やがて忘れる――そんな日本人の思考や行動の傾向性は「稲作を土台に、律令制+荘園制+武家政権の時代」を経て培われてきたといえる。本書では日本の歴史の経歴、慣習の積み重ねを民俗学の視点から歴史を追跡することで、どうやってそのような日本人が育まれたのかを知り、これからの社会のあり方、日本人のあり方を考える。
第5章 敗戦、経済大国、そして凋落へ より
「和製」民主主義
戦後日本の民主主義と自由主義
戦後の日本は、国民はみな平等で自由主義の国、民主主義の国になったとよくいいますが、はたしてどうでしょうか。
民主主義や国民主権という意味を、自分が国の主権者だ、国民が主人であり公務員は公僕だ、と考えている人もいるかもしれません。しかし、戦後約80年経った現在の社会の現実はどうでしょうか。
資本家や高級官僚と、一般国民の差は歴然としています。その差が正確な数値で報道されることがほとんどないのでその実感が共有されていないのでしょう。重い税金の負担の中でもさまざまな免税措置によって守られている政治家や会社や団体や個人があり、税金から逃れようのない一般国民と比べて決して公平ではありません。それでも自由主義や民主主義という言葉がもつ甘い響きにより、その不公平の実感と共有ができていないのが現状です。
それは、戦後日本の自由主義や民主主義というのが、GHQの占領政策の一環としての民主化指令によって実現したものだからです。日本の国民が自覚して勝ち取った民主化ではないのです。イギリスのように清教徒革命や名誉革命などの経て議会が力を蓄えて王権を制限し、獲得した歴史をもつ自由主義や民主主義ではなく、またアメリカやフランスのように独立戦争や革命を経て獲得した国民の権利ではないからです。
与えられた民主主義でしたから、その意義と価値とが国民にあまり理解されていないといってよいでしょう。自由主義(liberalism)というのは、何でも自由気まま、自由奔放、自由勝手という意味ではありません。しかし、どうも日本人がそのように考えてしまう傾向があるのは、もともと日本の歴史の中では「自由」という言葉が英語のlibertyやfreedomとはまったく別の意味の語だったという背景があるからでしょう。前にも書いたように、平安後期から中世の文書や書籍では「自由」というのは悪い意味で、道理を無視した身勝手な行動やわがままな自己主張という意味でした。それが人々の意識の中に底流しているのかもしれません。
「人間と自由」という問題については、1930年代のドイツにおけるヒトラーのナチスの台頭という体験の中で著されたエーリッヒ・フロム(1900~1980)の『自由からの逃走(Escape from Freedom)』(1941)というよく知られた本があります。日本人に限らず、自由というのは人間に孤独と不安をという思い負担を求めるものです。それに耐えきれない場合には、人々は権威への従属へ、自分の自由を否定する権威主義へと向かう、それがナチスの台頭を支援してしまった社会心理である。そういった人々がファシズム、一党独裁、言論統制という自由主義とは真反対の政府を指示してしまうので、自由主義(リベラリズム)と民主主義(デモクラシー)を基本とする社会は、その脆弱さに気づきそれに対応する方法を考えなくてはならないというのです。
フロムは、そのナチス台頭のドイツの社会現象に注目して分析し、人間は与えられた自由の中で孤独に耐え切れず、自分の成長と自己実現は阻まれると感じると、自分に欠けている力の部分を何か強い者に依存して補おうとする。そしてその強い権威に従属することで孤独感や不安感を払しょくする。その一方、敵対するとみなした他者に対しては強い攻撃性と加虐性をもち、その対象を破壊することで孤独感や不安感から逃れて心理的な安心を得る、と説いています。それは、このフロムの著作から約80年後の、日本をはじめとする現代のネット社会の情報氾濫の中でも見られる社会心理でもあるといってよいでしょう。
もうひとつ、民主主義(democracy)についても見ておきましょう。民主主義というのは理念であって、政治のしくみの上では「民主制」と呼びます。国の主権、つまり統治権は、戦前の大日本帝国憲法ではすべて天皇にあるとされていました。しかし、1946年(昭和21)11月3日に公布され、翌1947年5月3日に施行された新しい日本国憲法では、国民主権
、平和主義、基本的人権の尊重、という3原則が明記されていました。こうして統治権、つまり政治能力は、国民に直接選挙で選ばれた議員とその議員からなる国会をその「国権の最高機関」とする、と規定されたのでした。そして、天皇は「日本国民統合の象徴」ということになりました。
では、国民の選挙で選ばれる議員とその議員から構成される国会という国権の最高機関の具体的な機能という点から、戦後の歴史を追跡してみるとどうでしょうか。
まず、日本国憲法で三権分立を明記して、立法、行政、司法について、国会は国権の最高機関であり国唯一の立法機関である(41条)、行政権は内閣に属する(65条)、すべて司法権は最高裁判所および法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する(76条)、と定めています。
しかし、現実的には議員内閣制であり、国会の衆議院と参議院で多数を占める政党の党首が行政の長である内閣総理大臣に使命され、その国会の使命により、天皇が任命します。最高裁判所長官の使命により、天皇が任命します。したがって、内閣総理大臣に権力が集中するしくみとなっており、司法の独立性は完全ではなく、行政に従属するかたちになっています。
一般的には「戦後の民主化」などといわれて、民主主義は正しいものだと思っている日本人が多いかもしれません。
しかし、民主主義というのは主義であり、理念であって、現実の政治のしくみという点からいえば民主制と呼ばれるものです。政権の構成と政治の運営をどうするか、選挙によって国民の意思を問うしくみです。国民の意思がすべて同じだということはありえません。したがって、選挙で選ばれた代議士がその支持者の意思を政治の場で主張します。そこで同じ意見をもつ国民が政党をつくり、選挙で代議士を通してそれぞれの意思を議会で議論しあい、一定の結論を得てそれを政治の上に運用していきます。