我々の社会は未だ直系家族的であった~『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層 』鹿島茂氏(2017)
毎日1冊、こちょ!の書評ブログ
●トッドの家族人類学理論
・・・結論から先にいうと、トッドの家族人類学理論の勘どころは、従来、家族の分類としては核家族と大家族(夫婦が2組以上同居する複合家族・拡大家族)という区別ポイント(変数)しかなかったところに、兄弟間の遺産相続という問題に注目して、兄弟の平等・不平等というパラメータを配した点です。
https://kocho-3.hatenablog.com/entry/2017/05/10/130527
『第三次世界大戦はもう始まっている』
エマニュエル・トッド/著、大野舞/訳 文春新書 2022年発行
4章 「ウクライナ戦争」の人類学 より
人類学から見た世界の”安定性”
我々は、いま世界が”無秩序”に陥ったと感じています。しかし、この人類学的な地図からは、一定の”秩序”が見えてきます。どの国がロシアの味方になり、どの国がロシアと対立しているのかを見ていくと、この戦争の表面上の”無秩序”の奥底に、”人類学的な地図(世界の人類学的構造)”が存在し、しかもそれが極めて”安定したもの”であることが分かるのです。
たとえば、この地図からは、「核家族社会(父権性レベル0)」と「共同体主義的父権性社会(父権性レベル2または3)」の間に位置する「人類学的な中間地帯」があることも見えてきます。その代表例が、「直系家族社会(父権性レベル1)」のドイツと日本です。
ドイツと日本は、「西洋」に共通する核家族社会よりも父権的な社会です。人類学者として私は、ドイツと日本、とくにドイツは「西洋の国(核家族社会)であるふりをしてきたのだ」と考えています。あるいはドイツについては、「(核家族社会の西欧ではなく)より広義のヨーロッパに属している」と見ることもできるでしょう。
いずれにせよ、ドイツと日本が「西洋世界」に所属している(=西洋の国であるふりをしている)のは、人類学的な基盤によるのではなく、ともに第二次世界大戦で敗北してアメリカに”征服”されたことによります。もちろん、ドイツと日本にとってメリットもあったかもしれませんが、”人類学的な不一致”が見られます。ということは、人類学的に何らかの”無理”が生じているとも考えられるのです。
ちなみに、このような例は他にもあります。「家族構造という人類学的基底の決定力」は、絶対的なものではないとはいえ、かなり安定的なものです。読者の方々には、この地図を参考に、ご自身でも、さまざまなことをお考えいただけたらと思います。
「民主主義陣営VS専制主義陣営」という分類は無意味
私が申し上げたいのは、この戦争を政治学などよりも深い領域から検討すべきだということです。
「この戦争は父権性システムと核家族の双系制システムの対立だ」とは誰も言わないでしょう。西側のどのメディアにも、こうした分析は見当たりません。よく見られるのは、「民主主義陣営VS専制主義陣営」という捉え方です。
確かにこうした分類法も、冷戦時代には、とくにアメリカが国内の平等も維持しながら経済的反映を謳歌する一方で、ソ連と中国が全体主義的に計画経済を実践していた1949年から1975年頃までは意味をもっていたかもしれません。しかし、今日の世界にはまったく当てはまりません。というのも、まず経済面で、ロシアも中国も、国家統制の舌にあっても市場経済になっており、共産主義はすでに死に絶えているからです。
また政治面でも、ロシアと中国には、大衆の意見を表現し、それを見極める一定の能力があります。さまざまな世論調査や研究が示しているのは、良い悪いは別として、ロシア国民の大多数が、プーチンと与党を支持し、国政選挙のない中国でも、多くの国民が政府を支持し、受け入れているという現実です。つまり、ロシアにも中国にも「民主主義的な何か」が存在しているのです。
露中の「権威的民主主義」
こうした事実を前にして、西洋の人間は「何かがおかしい」と感じるわけですが、私からすれば、矛盾した話ではありません――ただしこれは研究者としての指摘であって、フランスに生まれ育った私自身は、個人的にはロシアや中国の政治体制の下で暮らしたいとはまったく思いません――。これらの国は「権威的民主主義」として分析されるべきで、これも1つの「民主主義」なのです。ただ「権威的」と名づけるのは、「少数派の尊重」が欠けているからです。
「民主主義」の原則は、「多数派が権力を握る」ことです。「自由民主主義」は、「多数派の権力」に「少数派の尊重」という原則が加わります。